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桜風 第三章 3 (by 麻那一睡)
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- 2007/08/05(Sun) -
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上田由利は泣いていた。
無理も無い。大事な孫娘の身に起こったことを考えれば。 少し年取った警察官が、肩を叩いて慰めている。 「おばあちゃん、そうしたら、被害届は出さないんですね?」 「はい」 由菜の祖母は香の匂いを漂わせて、焦げ茶色の和服の羽織の袂を揺らし、ハンカチで顔を覆っていた。 狭い部屋の隅の机で、若い警察官が何か書き留めている。 「そうですかー」 大林とか言うその年寄りの巡査部長は、首を回しながら腕組した。 「お孫さんを狙った連中は、前科もあるし、余罪もあるようなんですよ。 今後、また付け狙われたりしないように、しっかり告訴なさるのが良いと思うんですがねえ。本当はね。」 「すみません、その辺はよろしくお願いします。」 僕は立ち上がって頭を下げた。 無論、すでに理事長と警察の上部でやり取りがあったらしく、僕は学校の指示どおり、被害届・告訴は一切無しという方針のまま動くしかない。こうした事件の時の、いつものことではあるが。当然、どこにもも報道されない。 大林という男も、それを承知で言っているのだ。 余罪を追及するのに、被害届は多いほど面倒は多いが、罪状も多くなり、拘留期間も長くなる。 大林は職業意識の高い人らしく、このままうやむやになるのを、面白くないと考えているようであった。 祖母はまだすすり泣きつつも、 「孫はまだ高校生ですし、これから家を継がなければならない大切な子なのです。 こんなことで傷が付きますと、今後色々差し障りがあるのでございます。。」 と、くどくど繰り返した。 大林は、うんうんと頷きながら聞いている。 僕は時計が深夜近くなったのに気づき、外に出て携帯からタクシーを呼んだ。 警察署の中に戻ると、大林に肩を抱かれるようにして、よろけながら祖母が出てきた。 車が来てドアが開いたので、僕は 「上田さん、由菜さんは僕が明日うちまで送ります。後は何も心配しないで、任せておいてください」 「はい・・先生には色々ご迷惑ばかりおかけして。。申し訳ございません」 祖母は僕にお辞儀をして車に乗り込みながら、ふと 「先生、私くし、やはり以前先生を存じ上げていました」 と、思い切ったように突然言った。 僕はどう答えたら良いものかと考えたが、祖母は 「昔、由季菜の塾の帰りに、家まで送ってきて下さった方でしょう? 亡くなった後、遺品の中に写真もございました」 と、涙を抑えながら続けた。 黙っていると、 「先生、先生は由菜の・・」 「上田さん」 僕は一度それを遮り、運転手に行き先を告げた。 「上田さん、確かに僕は、高校と塾で由季菜さんと知り合いでした。 昔のことで、すっかり忘れていましたが。でも、それだけです。 亡くなったと人づてに聞きました。残念でしたね」 祖母は僕の顔を見上げ、ゆっくりうなづいた。 車が出ると、僕は急いで署の中に戻った。 さっきの部屋に戻ると、大林巡査部長が待っていた。 「先生、それでは今回はこのまま生徒さんを連れてお帰りください。 と言っても、本人は医務室で寝てますので明日の朝くらいになるでしょうが。 目が醒めたらお知らせしますよ。薬物は若干の睡眠剤程度のようですし。 それと、飲酒に関しては、強いられた様子もあるので、不問にしておきます。 生徒さんには、夜中にひとりで出歩かないようによくお話下さい。」 「わかりました。それでは、目が醒めるまで付いていて構いませんか? その方がすぐ連れて帰れますので」 「こちらとしてもその方が助かります。 では、医務室の方にどうぞ。 そうそう、これはお返ししておきますね。 書類を一緒に渡すので、サインお願いします」 大林は奥から持ってきた女物の青い大きなバッグを僕に手渡した。 そして 「現場の店に生徒さんが忘れていったものです。 お宅の連絡先のメモが入っていたらしいですよ。 それと、大金が入っていましたので、もしかしたら、生徒さんは家出する気だったのかもしれませんね。 まあ大事にならなくて、良かったです。 でも服を剥がされたり拘束されるというのは、相当に心に傷が残るものですから、 そのあたりはしっかりご家庭と学校でサポートしてください。 それと、後でこちらから連絡することがあるかもしれませんので。 未成年者ですので、その時は先生の方にもお知らせいたします。」 と、慣れた口調で言った。 若い警察官が立ち上がり、僕を奥の医務室に案内してくれた。 古臭い大昔の保健室のように、白い衝立の奥に並べられた二つのベッド。 その壁際のひとつに、由菜が青白い顔で眠っているのが見えた。 警察官が去って、僕は薄暗い灯りの下で、由菜の寝息を確かめて、ベッド横の椅子に座った。 夜中と言うのに、建物の前では何度もサイレンの音が鳴っていた。 廊下を早足で行く警察官達が、早口で暗号のような打ち合わせをしている。 なんだか僕と由菜の時間だけが止まって、ずっとこうしてきたような、これからもこうしているような、そんな不思議な感覚に襲われた。 夕べ、ジュンが電話を寄越した時、僕は香取えみの店に、彼女を訪ねて行こうとしていた。 アスミは間もなく帰ってくる。そうしたら、ひとりで飲みに行くことなど無い僕が香取に話を聞きに行くのはかなり難しくなる。もし知れたら、あらぬ誤解を受けないとも限らない。 木村が過去に伝えてくれた話や態度には、どうも妙に矛盾している面がある。 山路蘭子の話にしても、どこまで信憑性があるのかわからない。 由菜の誕生日から調べたが、僕が父親である可能性はやはり高いのだった。 しかし、由季菜と気まずくなった時期・別れの手紙をもらった日付を考えると、由季菜が僕の他にも付き合っていた男が居たのではないかという気もするのだ。 その疑いは、僕と由季菜の思い出や、亡き由季菜の尊厳を踏みにじるようで、僕にとってはいたたれないものではある。が、今、どんなことが昔あったと聞かされても、僕にはもうどうすることもできないし、傷を深めたとしても、それはそれでひとつの若い時期への感傷であるだけに違いない。 そして、もしその相手が、由季菜に幸せを感じさせることができた男であったのなら、僕は単なる捨てられた犬に過ぎないというわけだ。 ジュンの電話は、僕の実家にクラスの生徒のことで電話が着たと言う知らせだった。 何故実家に電話が行ったのか疑問に思いつつも、ジュンは僕にかけても繋がらなかったため、自分でその番号にかけたらしい。 かかった先は、市内の繁華街にあるショットバーだった。 ジュンは僕にすぐにメールを打った。 「オヤジのクラスの生徒が事件に巻き込まれたらしい。 駅前の***ビルの***組の事務所の地下に警察が向かってる」 あまりにも短いその内容で、何も詳しくは解らなかったが、僕は即座に車をUターンさせて現場に向かった。 三年に一度くらいは、必ずこういうことがある。 都市部の女子高には付き物である。 それも私立であるから、体面を考えて、事件は大抵無かったものにされてしまうのも、いつものことである。 僕はまた学校の指示を仰ぐために、聞きたくも無い教頭の声を聞かなくてはならないかと思ったり、 以前あったように、性犯罪に遭った子が直後に自殺したり(これも報道されなかった)することが無いように祈った。 ***ビルの裏口に着くと、すでにパトカーが何台も止まっている。 僕を見て、ひとりの警察官が追い払おうとしたが、連れ去られた子の担任だと言って身分証を見せると、すぐ指示しているらしい中年の警察官が、 「担任の皆川先生ですね。急ぎますんで、とりあえず容疑者の連中を確保するまでここに居て下さい。 生徒さんを連れてくる時は、知らせを寄越しますから、それからこのドアの先の階段を下りて来ていただきます。」 と、緊張気味に青ざめた表情で告げた。 頷いてすぐに待機の警察官の元に行くと、様子に気づいた建物の中にいたらしいチンピラのような男達が口々に何か騒いでいた。近所の野次馬も窓から顔を出している。 僕は生徒の名前を聞いたが、若い警察官は知らないと答えた。 周りはざわめき始め、僕はこの騒ぎの中で生徒が晒し者になるのはたまらないと強く思った。 「すみません、連れて出てくる時はどうしたら良いですか」 大きな声で聞くと、チンピラと話していた私服刑事が振り返り、 「先生ですね。生徒さんの付き添いをお願いします。 出る時は入り口に一般車両を付けるので、すぐにその車に乗ってください」 と、テキパキ答えた。 その時、無線が入ったらしく、その刑事の指示で僕は警察官達の後に付いて階段を駆け下りた。 地下の薄暗い事務室のドアが開け放たれ、奥で三人のチンピラと警察官がもみ合っていた。 チンピラ連中は、何やら大声を出していたが、僕はそちらは見ないようにして刑事の指示するまま、コートを着せられてうずくまっている少女に駆け寄った。 「君、大丈夫か」 肩を掴んで揺すると、少女は長い髪の中から俯いていた顔を上げた。 由季菜だった。 僕ははっとして、その涙に汚れた顔を見た。 頭の中が、一瞬真っ白になり、僕は時間の感覚を失った。 胸を抉られたような激しく鋭い痛みが走った。 由季菜が僕を呼んでくれた・・・。 「今になって……こんなに時間が経ってから どうして呼んだんだ?」 僕は、怒りでもない悲しみでもない痛みに耐えながら、思わず言った。 言ってから、僕は我に返った。 よくよく見ると、その顔は由季菜ではなく、由菜なのであった。 混乱の中、僕の思考は一瞬、今の立場を見失いそうに凍ったようであった。 由菜は僕とわからないのか、ぼんやりした目でこちらを見上げている。 かけられたコートがずり落ちそうになり、上半身が露になって、僕は急いで自分の上着を脱いで由菜の体を包んだ。 由菜はやっと僕と判ったらしかったが、何度もうわ言のように「シュウヤ」という名前を口にした。 そして、僕に何か意味不明なことをずっと話し掛けてくる。 僕はようやく、シュウヤという男が、大原女史の甥のことだと気がついた。 由菜は理由は知らないが、彼の死に大きなショックを受けていることだけは確かなようであった。 周りの喧騒の中、抱き上げようとすると、拒みながら由菜は、熱に浮かされたように 「シュウヤさんは?」と、何度も僕に縋るように聞く。 僕はイライラして、思わず大きな声で「死んだんだ」と返し、由菜を上着にくるんだまま横抱きにして立ち上がった。由菜は何か叫び、顔を覆って泣きじゃくっていた。 警察官がすぐ先導してくれ、入り口に行くと、フライシートでガードされて外からの視界を遮られた青いライトバンが止まっていた。すぐに乗り込むと、中は厚いカーテンで覆われ、外からは完全に見えないようになっていた。私服の警察官が運転席に居て、無言のまま僕を見てうなづいた。 乗り心地の悪い椅子に由菜を抱えて座ると、車はすぐに発進した。 カーテンの隙間から外を見ると、さきほどの地下に居た連中が両脇を抱えられてパトカーに乗せられている。 サイレンが鳴り響いた。 さすがの僕の心臓も、驚くほど鼓動を早くしていた。 腕の中の由菜を見ると、赤くなった目で遠い目をしている。 僕は、このまま由菜の気がふれてしまうのではないか、 どこか別の世界へ引き込まれてしまうのではないか、と 突然不安になった。 僕は由菜の肩を抑え、 「シュウヤ・・か。上田はそいつと付き合っていたのか?」 と、極めて穏やかに尋ねた。 由菜は黙っていた。 そして、少し経って 「私を助けてくれる人」 と、小さな声でつぶやくように言った。 僕の胸の痛みが、また強く襲ってきた。 「いろんな悲しいことを みんな素敵な事に変えてくれる人」 由菜は遠くを見たまま、微笑むように言った。 僕は黙って由菜の髪を撫でた。 「でも……もういない いない いない どこにもいない だれもいないっ!」 由菜は体を震わせ、僕の腕を強く掴み、声を上げて泣いた。 僕は胸の中に由菜を抱きしめた。 それ以外、何もできなかった。 しばらくそのままで居ると、不意に由菜は顔を上げた。 乱れたままの髪も、青い頬も、震える唇も、何もかも美しかった。 「先生も……誰もいないの?」 無邪気な目に、涙が溢れている。 僕は指先でそれを拭きながら、無理に笑ってみせた。 由菜はそのまま目を閉じた。 車は警察署に着こうとしていた。 僕は胸の中の少女の額に顔を寄せた。 「由季菜」 「由季菜。僕だよ。」 上ずった声で囁いたが、少女は眠ってしまったようであった。 署に着くと、待機していた医師何人かが、すぐに由菜を担架に載せて奥へ運んでいった。 年のいった警察官が、僕のそばに来て、帽子を取って頭を下げた。 「巡査部長の大林です。この度はご協力ありがとうございました。 お疲れ様です。お話を伺いたいので、こちらへどうぞ。」 調書を作るのに由菜の家庭のことや学校のことを聞かれ、事務的に答えた後、僕は外に出て携帯で教頭に電話した。こうした時の手順は、予め決められてある。 教頭はやれやれ、という口調と共に、申し訳に生徒を労わる言葉を言ってすぐ切った。 多分すぐに理事長に知らせが行き、由菜は保護者が来たらすぐ帰宅できるはずであった。 それからジュンにメールを打った。 「なんとか間に合った。今警察にいる。明日の朝帰ると思う。留守を頼む」 さっきの聴取室に戻ると、いつのまにか由菜の祖母が来ていたのだった。 一度に色々有りすぎて、パニックになった頭の中を整理したいと思い、 僕は由菜の寝顔をあまり見ないようにして、ベッドの脇で目を閉じた。 疲れがどっと湧いてくる。 さっき、由菜が現場に蹲っていたのを思い出した。 今にも消えそうな心細そうな目。 清い世界に住む可憐な魂が、あまりにも無残に傷ついたさま。 守るべき者を守りきれない焦燥感と挫折感。 僕の手の届かない場所で、傷つき、そして失望したであろう少女。 万華鏡のように、さまざまな光景が僕の頭の中で、見たくも無い記憶を呼び覚ます。 僕は守れなかった。 由季菜も、そして由菜も。 汚れないものを汚そうとする下劣な存在が、僕の愛する少女達を常に冒そうとする。 いっそ、僕のすぐ隣に居れば良かったのに。 僕の手を握って、離さなければ良いのに。 僕は僕の大切な人を、いつもいつも胸に抱いていればよかったのに。 何をためらうことがあるのだろう。 もうこんな思いはたくさんだ。 ふと、足元に置いた由菜の忘れたと言う鞄に目を向けた。 こんな大きな鞄をひとりで抱え、この子はどんなに孤独だったのだろうか。 そばでこの子の鞄を持って運んでやるやつさえ周りにはいないというのか。 誰にも話さず、ひとりきりで夜に歩き回る子を、必死で追ってくれるやつはいないのか。 自分のプライドやつまらないこだわりなどすべて捨てて、その手を引いてくれるやつはいないのか。 僕がなってみせよう。 そんな愚かな男になってやろう。 何のためでもない、僕自身のために。 この子が笑って僕のそばにいてくれるなら。 僕はどんなことでもしよう。 鞄をそっと開くと、着替えらしき衣類の上に、桜色の皮の財布があった。 手に取ってみると、やたら年季は入っているものの、ブランド物の良い材質のもののようだった。 シュウヤとか言う男からもらったのだろうか?それとも、他の男から? 開くと、何枚かの札と、紙切れが入っている。 折り畳まれた紙は、なんだか古くて端が黄ばんでいるが、無理に広げたらしい後が残っている。 取り出して見て見ると、何か走り書きがしてある。 『この間は酷いことしてごめん 困ったことがあるなら 何でも言って 僕は君と一緒にいたい Eiji 04*-****-****』 「・・・え?」 僕は思わず声を出した。 そして、それを受け取った時の由季菜の、困ったような穏やかな笑顔が、鮮やかに目の前に顕れた。 「なんだって」 頭の中に、ぐるぐる混乱した思いが渦巻き、僕は必死でそれを解こうとした。 そうだ。由菜は由季菜の娘だ。 同じ部屋に居てもおかしくはないし、遺品が転がっていることだってあるだろう。 部屋にあった古い財布を引っ張り出して気まぐれに使ってみることもあるだろう。 でも、どうしてこんなメモが無防備に入っていたのだろう? 由季菜の両親はとても厳しく、僕達は手紙や電話は控えるか、見たらすぐに破り捨てることにしていたのに。 写真はお互いに一枚だけ隠し持っていたが、手紙はもう残っているものは無いはずだ。 この走り書きは、確かに僕の字だ。 僕が書いたものだ。 由季菜の誕生日に贈ろうと、父に頼んで事務所のバイトを引き受けて金を貯めたのだった。 そうだ、そうか、この番号は、当時の父の事務所の番号なのだ。 今は営業所になっていて、多分、拉致現場の店の人間はこの番号にかけたのだろう。 営業所の人間が僕の実家に知らせ、父か母が僕の自宅の番号を知らせたのか。 それでジュンがあんなメールを寄越したのだ。 僕は当時、寮か学校か塾以外は、その事務所でひとりで書類の整理をしていたのだ。 だから、親に知られず話せるこの番号を書いたのだろう。 そして、このメモ書きを見て、由季菜が僕に電話をくれることを、僕はずっと待っていたのだ。 そう、僕はもっともっと、由季菜と話がしたかったのだ。 もっともっと、打ち解けたかったのだ。 由季菜の身にどんなことが起こっていたのか、今も昔も、僕は知らない。 いや、知ろうともしなかったのだ。 親になんか遠慮せず、もっと由季菜の近くに居るべきだったのだ。 そして、自分の弱さも醜いところも、すべて由季菜に知ってもらうべきだったのだ。 もちろん、由季菜自身のことも。。。 由菜は、僕の子なのだろうか? いや、僕の子であろうとなかろうと、僕の守りたいという気持ちは変わらない。 由菜の中に僕は由季菜を見ているのか? 違う、確かに顔形は少し似ているけれど、あの気性の激しさや大胆さは、由季菜の中には無かったものだ。 由菜は、由菜なのだ。 由菜は、由菜自身の人生を生きている。 由季菜がこのメモを見て、電話してくれていたら・・ 僕がもっと別れの言葉を否定していれば。 もっと深く悩みを受け入れることが出来たなら。 由季菜の子の父親が誰であろうと、僕は由季菜と生きることを選んだ筈なのに。 その後の果てしない後悔と絶望を考えたら、一時の親の妨害など取るに足らないものであったというのに。 僕の心はまた渦のように混沌と乱れ、さまざまな思いは浮かび、流れた。 ひとつ言えることは、僕は由菜がどうなっていこうと、必ずずっと見守りたいということだけだ。 愛や恋などという薄いものではない、由菜のすべてを受け入れたいと思うこの気持ちだけは。 しかし、一体その為にはどうしてやれば良いのか。 僕にはわからないのだ。 それでも、この気持ちが、僕を長い絶望の淵から救い上げつつあることもまた、確かなのだ。 目をそむけていた由菜の寝顔を見ると、いつのまにか顔色が戻りつつあった。 「・・」 何かつぶやきながら、由菜は寝返りを打ってこちらの方に体を向けた。 布団を直してやり、髪を撫でてやろうとすると、由菜は少し子供がいやいやをするように顔を左右に動かした。 僕は微笑んだ。 そして、由菜の祖母は泣いていたけれど、ついに由菜の様子を心配したり、顔を見たがったりしなかったことに気がついた。 もちろん、それは僕が付いているという安心もあったのだろうが。 普通の家族であれば、事件に巻き込まれた子の体を心配し、しつこく様子を聞くのがいつものことであった。 特に父親などは、嘆き悲しみ、僕の管理不行き届きを責める人もいた。 肩を落として、ずっと静かに泣く人もいた。 顔を見るなり、娘を殴ってすぐに抱きしめながら号泣する人もいた。 僕はいつもそんな様子に心を動かされることもなく、ただ事務的な処理だけを考えていたのかもしれない。 口では生徒を労わっていたけれど、息子しかいない僕には、どこか別の世界のことのように思われた。 それに、生徒は生徒であり、それ以上でもそれ以下でもない、と、僕はきっと、どこか冷淡に考えていたのだ。 でも、こうして由菜の傷ついた様子を見ると、あの父親達の動揺や、嘆き悲しむ様は、愛されている何よりの証拠ではないかと思えてくる。 号泣しながら娘を抱きしめていた父親の気持ちが、犯人を殺したいと言った父親の気持ちが。 今の僕にはよく解った。その愛も、憎しみも、激しさも。 今まで誰一人として、告訴しないことにすぐに同意した父親はいなかった。 母親は、娘の将来を心配して、寧ろ公にならないように心配しているものであったが。 父親は違う。 学校の指示を聞くと、皆一様に激怒し、僕を責めた。 それを納得させるのに、いつも何日もかかるのが常であった。 時には、学年主任や教頭が、自宅に説明と謝罪に向かうこともあった。 僕は、由菜の祖母にも、襲った連中にも、腹はあまり立ってこなかった。 そんなことよりも、最初から頼ってもらえなかった僕の不甲斐なさが僕を打った。 由菜は、僕に助けを求めたのではなかった。 呼んでいたのは、別の男の名前だった。 それでも、いい。 由菜が誰を愛そうと、それはそれでいい。 僕は何があっても、由菜を守る。 僕は由季菜の死後も、のうのうと生きてきた。 しかしそれは、きっとこの孤独な子を守るために生き延びてきたのだ。 知らない間に、僕の目から涙がしたたり落ちていた。 僕は由菜の寝ている布団に突っ伏し、声を立てて泣いた。 一体、最後に泣いたのはいつだったろうか。 いつの間にかうたた寝してしまったらしく、目の前が明るくなってきて僕は目を醒ました。 起き上がると、布団がカラになっていた。 驚いて立ち上がると、窓際の椅子に由菜が座り、白いブラウスにスカートの姿で、髪を梳いていた。 カーテンから差し込む桜色の光を浴びて、由菜の姿は濃い黒になり、まるで美しい影絵を見ているようであった。僕に気づいて、由菜は手を止め、僕の方に体を向けた。 「先生」 僕は吸い寄せられるように近づき、立ち上がった由菜の華奢な体を抱いた。 由菜は黙って僕の胸に顔を埋めていた。 何か言いたかったが、何も言う事ができなかった。 しばらくそうして、由菜は不意に離れると、僕の顔を見上げた。 透けるような目が僕の気持ちを読み取っているようにも思われた。 僕は目を逸らさなかった。 由菜の白い顔を縁取る黒い長い髪が、かすかに揺れるのが視界の端に見えた。 由菜は少し首を傾げ、何か考えている風だった。 そうか、あのメモ書きを見たのだ。 由菜は、僕を父親だと思ったのだろうか。 僕はもう一度、近寄って由菜を抱き寄せた。 さっきは気づかなかった髪の匂いが花のように感じられた。 「先生」 由菜は静かに言った。 そしてまた僕をじっと見上げるのだ。 僕は不安げな、悲しげなその顔を、心から愛しいと思った。 頬に手を当てると、由菜は自分の手をその上に当てた。 手のぬくみが伝わり、そこから僕の中に何かが流れ、あふれ出るような気がした。 それに突き動かされたように、僕の両目から、また涙が流れ落ちた。 由菜は驚いたように目を見開き、少し微笑んだ。まるで母親みたいに。 泣くのは僕じゃない。 泣きたいのは由菜なのに。 泣いてはいけない。 守るのは僕だから。 手続きを終えて、僕は由菜をタクシーに乗せて家に送った。 祖母はさすがに由菜の姿を見て、泣いて抱きしめた。 僕は4.5日休むように告げ、荷物を渡した。 由菜は、僕に頭を下げ、 「いろいろありがとうございました」 と言った。 僕は頷き、由菜の頭に手を乗せ 「とにかく早く忘れなさい。連中は当分出てこれないらしいから安心して。 だけど、ひとりで出歩いたりしてはいけないよ」 と、笑いかけながら言った。 由菜は 「はい」 と返事をして、僕を見送りに玄関に出てきた。 「先生」 タクシーに乗ろうとすると、由菜は数歩踏み出して、 「私、大丈夫です。心配しないで下さい」 と、僕の顔を凝視しながら言った。 しかし、言葉とは裏腹に、由菜の表情はどこか翳りがあった。 「上田さん」 僕は手を伸ばしたかったが、それは我慢しながら 「無理しないでいいんだよ。 辛い時は、支えあうものだよ。」 と言った。 まるで僕自身に言ったような気がした。 由菜は力無く微笑んだ。 そして、もう一度僕を見上げたが、もう後は何も言わなかった。 角を曲がる時に振り返ると、由菜の姿はまだ家の前から動いていなかった。 駅前の繁華街に戻り、パーキングエリアに駐車していた車を取りに行った。 メーターは七時間になっていた。 わずか七時間のことだったのだ、と、僕は少し驚いた。 駅前は相変わらず人々の雑踏で朝から舗道は隙間も無く見える。 いつもの朝の光景の中、僕の中には体の中に花の露がこぼれるような、そんな潤いを感じていた。 家に戻ると、気がついてジュンが起きてきた。 頬と眼のあたりが、腫れあがっている。 「おい。その顔はどうした」 僕は驚いてよくよく見ようとした。 が、ジュンは湿布を当てながら 「ああ、これはまあ、あとで話すよ。 とにかく、生徒は助かったんだね」 と、不安そうに聞く。 僕は頷き、 「ジュン、ありがとう。 お前のおかげだよ。 うまい具合に動いてくれたから、現場に直行できたし。」 「***ビルの地下って、相当やばそうだな。生徒は怪我してなかったのか」 「うん。大したことはなかったけどな。まあ女の子だからショックの方が大きかったみたいだな」 「乱暴されたのか」 「いや、そんなことはない。お前はもう心配しないでいいぞ」 「かわいそうだな」 ジュンはメグという女の子がセクハラされていたことでも思い出したのか、自分の事のようにしょんぼりした。 「お前はいいやつだな」 僕は笑い、ジュンの肩を叩いた。 身支度していると、ジュンが制服に着替えてコーヒーを淹れながら大きな声で、 「そうだ、帰ってくるってさ。来週」 「ん?お母さんか」 「うん」 「そうか。おばあちゃんの具合良くなったのかな」 「そうみたいだ。」 テーブルに着いて二人でコーヒーを啜る。 ジュンは心なしか、まだしょげていた。 「なんだ、まだ何か凹んでるのか」 「このままオヤジとふたりならいいのにな」 「うん?」 「俺・・オヤジの方が話せるし。」 そういえば、アスミが居る時は、ジュンはほとんど部屋から出てこない。 アスミが話し掛けても、つっけんどんな返事しかしない。 「お母さんのこと嫌いなのか」 「うーん・・そうじゃないけど。 なんかさ、俺がシェフとかバーテンになりたいのがいやみたいだ。 すぐ、必ず大学行けとかさ。言うのよ。お父さんみたいになれってうるさい」 「ふーむ」 「オヤジは俺の気持ち解ってくれるけどさ。 だけど、オヤジだってそうだろ」 「ん、何がだ?」 「オヤジ、あんまうまくいってないだろう」 「そんなことはないぞ」 「ごまかすなって。俺にはわかってる。 別の女と付き合ってるんだろ」 「何を言い出すんだ?」 僕は笑った。 「そんな甲斐性ないぞ?俺には」 「だってな、もし俺がオヤジだったら、寂しくてたまらないと思うも。 毎日電話して、そっちのことなんかいいから、早く帰って来いって言うと思うも」 確かにそうだろうな、と、僕はジュンの青い純粋さに感心した。 「まあ20年近く一緒に居たら、こんなもんだと思うが。」 「言い訳だね」 ジュンはサーバーを取って両方のカップに注ぎながら、 「俺だったらもう、好きな女と居られたらさ。毎日ちやほやして毎日うまいもん作ってやるなあ。 かわいいかわいい、ってほめてさ。猫みたいにずっと膝に乗せてるよ」 「なかなか優しいんだな」 僕は少し噴出しそうになりながら言った。 「お前はそういうダンナになるかもしれんな。 実際、そうしているダンナってのもいるしなあ。」 「俺ほんと、もったいないと思うも。 せっかく結婚できたのにさ。 ちやほやしてやらないと、女だって不幸せだと思うぞ」 そう言ってさっさと立ち上がり、制服のまま手早く後片付けを始めた。 今の店でバイトを始めて、もう一年以上経つ。 飲食店は日々いろんな客が来るし、大人と会話する時間も多いのだろう。 加賀や園田や夕べの連中のように、女を性の対象としか見れない男でも、ジュンのような健気な気持ちで女を愛したことがあるのだろうか。 自分の愛する女に精魂傾けたいと思うジュンの気持ちは、いつもの僕なら苦笑いして聞き流すことだけれど、今日の僕はなんだか息子のそんな清純さに、ひどく喜ばしい心地がした。 そこでふと、息子の顔が腫れていたのを思い出した。 「おい、その顔だけど」 「ん?」 ジュンは振り返り、冷蔵庫の脇の小さい鏡を覗き込んだ。 「こりゃひでえな」 「ケンカか」 「いや、あ、そういえば」 手を拭きながら、ジュンは難しい顔をしてまた僕の前に座った。 「例の加賀なんだけどさ。」 「うむ」 「シチリのバーテンのひとりと仲良くなったんだけど、そいつの話では、あまり加賀のことは話題にしない方がいいって。」 「ふむ」 「脱税疑惑とかさ、給食センターの談合とかさ、無届風俗業とか、俺にはよくわからない難しい噂も多いけど、結局のところ、大抵はもみ消されたりしてるから、どっかにチクっても無駄だろうって。」 「そうか」 「とにかく父親の七光りで、なんでもなんでも手を出して尻拭いしてもらってるみたいだ。 まずいことになると、2、3年海外に留学とか研修とか理由つけて出て行っちまうんだって。」 「ふーむ」 「大学の時とか、こそこそ乱暴した女の彼氏に半殺しにされたらしいよ。 そのまま留学して逃げたって」 「女の彼氏にか」 「うん。何度も逃げたら、大学の教室まで追ってきて、木刀で殴られたらしいぞ」 「・・・」 「有名な話らしい。警察に届けても無駄だからヤったんだろうな、そいつ。かっけーな」 ジュンは鼻を膨らませながら腫れた顔でにこにこしている。 「で、顔はどうした。かなり痛そうだな。医者に行った方がいい」 「あ、これか。シチリの連中に呼び出されてボコられた」 「なんだって」 「うちのバイトの女の子に手出すなってさ。」 遠野のことか、と僕は気がついた。 バイトを辞めるように言ったが、そういえばその後どうなったのか。 「女がらみか」 「俺、何もしてないよ。手なんか出してないよ。一緒に帰ったくらいで。」 「おい、まさかその子、うちの生徒じゃないだろうな」 「あ、うーん、いや、」 「俺のことを話したのか?」 「ううん、多分向こうも、俺の苗字知らないと思う。みんなにジュンって呼ばれてるし」 「下手なことしたらいかんぞ」 「本当に何もしてないよ」 ジュンはムっとして僕を睨んだ。 大方、もう別の女の子を好きになって追いかけているのかもしれない。 僕が何か考え込んでいると、ジュンはさっさと学校へ出かけようとした。 「おい、帰ったら医者に行けよ」 背中に声をかけると、ジュンは靴を履きながら手を上げてみせた。 そうか、やはり加賀が絡んでいたのか。 僕は車に乗りながら、ジュンの話を反芻した。 加賀は、由季菜を襲った連中のひとりだった。 そして、今は由菜を狙っている。 加賀にも妻子がいると聞いたが、最早慈悲は不要のようである。 僕は加賀を必ず失脚させなくてはならない。 何も力も権力も無い僕が、どうやって彼を社会的に抹殺できるだろうか。 一体どうやって。 |
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桜風 第三章 4 ( by 奈々花 )
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- 2007/08/19(Sun) -
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硯を投げた日を 覚えている。 細かい記憶は確かではないが あの日の祖父の目を忘れられない。 祖父は私の母である由季菜を心から愛していたのだろう。 そしてその愛の深さは そのまま裏切られた憎しみと化したらしい。 期待を裏切った娘と その娘を堕落させた知らない男 そしてその二人の血を引く私。 私は何も罪を犯す前から ただ生きているだけで 祖父母に大きな苦痛を与える存在だった。 それは幼い私には到底理解できる事ではなく 甘えたいと伸ばした手を斬りつけられるような態度や言葉に 何度言葉をのみこみ 手を引っ込め 俯いてきただろう。 あの日私は祖父の前で墨をすっていた。 決して書が嫌いなわけではない。 ただ時折 隣から冷たい目で睨まれているような視線を感じ身体の芯から凍るような悲しみを感じた。 愛されたい者から憎まれる悲しみは 私の中で薄く何層にも降り積もっていた。 いつだって私を愛してくれるのは 夢の中の母だけだった。 お腹を撫でて何か優しく話しかけている母。 母の夢だけが私の存在を肯定してくれる唯一の支えだった。 単なる自分の希望をカタチにしただけの夢なのかもしれないが 私にとって母は救いだったのだ。 だから母の悪口を言ったあの日の祖父を許せなかった。 転がった硯 廊下に飛び散る墨の黒 母を蔑む言葉を発した祖父の憎しみに満ちた目。 それは祖父母に愛されたいと心から願っていた私が 願いを諦めた瞬間でもあった。 気がつくと何が起きたのかわからなくなっていた。 身体中を痛みが襲っていたが それよりも心がバラバラに引きちぎられたような痛みを感じていた。 身体の痛みがなかったら もうとうにおかしくなっていたかもしれない。 祖父母は単純に身体の痛みと階段から落ちたというショックで 一時期私が話せなくなったと思っているらしいが そんな事はたいした事ではない。 まだ小学校の低学年だった私は あの日幼くして全てに絶望したのだ。 あの日から私は 期待するのをやめた。 期待さえしなければ 叶わないということにいちいち悲しむ必要はない。 そう。 そうやって生きてきたというのに。 私は修也に出会ってあのもう一度世界に期待してしまった。 そして だから……やっぱりこういう結果になったのだ。 修也の事故は 加賀と何らかの関わりがあるのだろうか。 だとしたら 私は修也に期待して そして修也を殺したのだ。 あんなに純真であたたかい人を 結果的には私が殺してしまったのだ。 もう 二度と 誰にも何にも 期待なんかしない。 重い身体を引きずってなんとかベットから起きあがると 洋服ダンスに埋め込まれている細い鏡に 自分を映してみた。 いつも着ている白いパジャマ姿の私が 鏡の幅の分だけ細く映っている。 一つ一つボタンを外してゆっくりと全てを脱ぎ去って もう一度鏡に映してみる。 身体のあちこちに青黒い痣が残っていた。 そういえばなんどか殴られたような気がする。 汚らわしい奴らの手が身体に触れた感触をふっと思い出し 私はブルッと身を震わせて唇を噛んだ。 激しい嫌悪感がこみあげていきなり吐きそうになったが 座り込んで身をかがめなんとか耐える。 ……こんなこと なんでもない。 たいしたことじゃない。 心の中で言い聞かせるように呟いて 少し涙のにじんだ目をそっと開くと 胸元に修也がつけた消えかけの赤色が 目の前の鏡に映っていた。 ……修也さん。 いきなり悲しみに襲われて 涙が止らなくなった。 失ったのだ 全てを……。 机の上に私が持っていた鞄や財布がきちんと並べて置いてあった。 警察から返された物を祖母が部屋へ運んだのだろう。 財布を手にとって あの紙を探したが見つからなかった。 皆川先生が持って行ったのかもしれない。 あのローマ字で書かれていた名前は先生の名前と一致する。 同じ名前の人なんて五万といるだろうが 先生があの紙を握りしめて眠っていた事を考えれば あれは昔先生が 母に送った物だと考えるのが一番自然な気がする。 母と先生は恋人だったのだろうか。 あの文面だと 母はなにか悩みがあったが それを先生には打ち明けられなかったのかもしれない。 もし 母が先生に悩みを相談し 解決したとしたら 母は今でも生きていて 私の横にいてくれたかもしれない。 どうして 打ち明けなかったのだろう。 打ち明けにくい内容だったのかも知れないが それでもなんとかしてくれると信頼できたならきっと話せたはずだ。 ……なんとかしてくれるとはとても思えなかったのだ。きっと。 私だって 皆川先生に期待したって無駄だと思ったくらいなのだから。 だったら先生は 母を見殺しにしたことになる。 悩み苦しむ母に一度だけあのメッセージを送っただけで 反応がないともうそれで全ての責任を果たしたかのように見殺しにしたのだ。 あのいつもの事務的な冷たさで 。 ふっとあのとき覗き込んだ先生の瞳の色を思い出した。 光の差さない暗い淵にいる人の目だった。 私には 救われなかったのが母なのか先生なのかはわからない。 そしてそれは 今となってはどうでもいいことだ。 いつだってこの世界に私は要らない。 私も もうこの世界は要らない。 全てを滅茶苦茶に壊したい衝動が 身体の中で暴れているのを感じる。 全てがどうだっていい。 ほんの数ヶ月前 高校の入学式に向ったあの日 まだ私はなんとか祖父母の期待にそえる娘でいたいと考えていた。 なにか本心を言えば安全な足場が消えてしまうような気がしていつも恐れていた。 そして修也に出会い、失って はじめから私に足場などなかった事を思い知った。 あの震えていた私は今どこかに消えようとしている それに代わって凶悪な憎悪の固まりが私を支配しようとしていた。 みんな消えればいい。 あの騒ぎの最中に 加賀がよこしたメールは 思いのほか威力を発揮していた。 私は鏡から目を逸らし もう一度パジャマを着て ケータイを手に取った。 お陰で殺されかけたとも言えるが 一応連絡をしておいてやろうとアドレスから加賀のナンバーを発信させる。 昨夜の事は おそらくまだ加賀の耳には入っていないだろう。 「加賀さんですか」 しおらしく聞える声で尋ねると うれしそうな加賀の声が耳元で響いた。 「私 加賀さんと付き合ってるからと言われ 昨日あれから拉致されたんです。もう少しで命を落とすところでした。でも殺されなくても殺されるより恥ずかしいこともされて……私……もう こんな思いをするんなら 二度と加賀さんに会いたくありません。それだけお伝えしたかったんです」 電話の向こうから殺気だった加賀の声が 事の詳細を聞いてくるのに大まかに答えると私は早々に通話を終えた。 ふっと笑みが浮かんだ。 まず 悪は悪同士でつぶし合えばいいのだ。 あれから3日が経った。 ほぼ寝ては起き 起きてはまた横になる生活をしていたが 自分でもどういう訳かわからないが 急に外に出てみたくなった。 クローゼットからグレーのワンピースを出し 髪をルーズにアップにした。 このワンピースは昔 母が高校生の時に着ていた物だと以前祖母が言っていた。 祖母は物が無かった時代を経験しているせいか まだ使える物を捨てるということはしない人間だ。 だから私の部屋には 母が遺していった物がゴロゴロある。 一度だけ この服を着た母の写真を見たことがある。 祖母の部屋にあるアルバムは滅多な事では出てこないが 祖母の部屋のエアコンを新しくする際 押し入れの上の棚に在った物を出して 電気工事の人が配線をしなおした。 そのときに奥深くしまわれていたアルバムを 祖母が席を外した時に盗み見たのだ。 母は笑っていた。そして髪をこんな風に上げていた。 祖母が買い物に出たのを確かめると 私はそっと家を出た。 入学して間もない頃 皆川先生の家が 自分の家のすぐ近くだったと話していたクラスメートがいた。 だからとりあえずどの駅が近いかくらいはわかるし 降りてからの大体の方角は見当がついた。 先生がどういう暮らしをしているのか 気になる。 道がわからなければわからないで とりあえず近くまででも行ってみようと思う。 知りたい。 先生は 母を見殺しにして 誰とどんなふうに生活しているのか。 そして何がその瞳を あんなに暗くさせているのか。 駅を降りると私は そのクラスメートの家の方角に歩きはじめた。 歩いても歩いても結局見つけられず 自分の行動の適当さに 自分で呆れたころ 路上に駐めた車から降りてくる 木村先生を発見した。 木村先生は鍵をポケットに入れると 時計を覗き込みながら小走りに 向かいのマンションに入っていった。 木村先生がマンションに消えたのを確認してから 郵便受けに近づき名前を探した。 そしてとうとう五階に皆川という文字を見つけた。 少し離れた場所から その五階を見上げてみると 洗濯物を取り込んでいる中年というには若々しくて可愛い感じの女性が見えた。 あれが皆川先生の奥さんなのだろうか。 じっと見ていると 窓が中から開けられて 皆川先生本人が出てきた。 女性は振り向いて何か声をかけ恥じらうように笑った。 結婚しておそらく十年以上は経っているだろうに どこから見ても今でも惚れているとわかる仕草が 私の胸に刺さった。 母は見捨てられて死んだのにと思うと 母が不憫でたまらない気持ちになった。 しばらくすると 木村先生がマンションから出てきた。 見送りに出てきたのか皆川先生も出てきて 二人は数メートルを一緒に歩き じゃあと声をかけあい片手を上げた。 木村先生は先ほど降りた車に乗り 振り向きもせずに走り去っていった。 「先生っ!」 建物の影から声を掛けると 辺りを見回してようやく私を見つけた皆川先生は 口を開けたまま 呆然とした。 幽霊でも見たような顔だ……そう 幽霊を見せてあげる。 「由…………菜」 由季菜と言わなかっただけ 立派かもしれない。 なにしろあの写真を思い出し できるだけ似せてきたのだ。 先生は困惑した顔で私を見つめ続けていた。 「ねえ 先生 お母さんをどうして捨てたの?お母さんが自分に相談しないから どれだけ悩んでても見捨てたの?お母さんが相談に来なくても なんとか助けようとは思わなかったの?先生の一番大事なのはやっぱり自分なの?」 先生は青ざめた顔で唇を噛んだ。 上を見上げてみたが マンションのベランダにはもう誰もいなかった。 「あの人のほうがお母さんより好きだから?……だから見捨てたの?」 そのとき コツコツと階段を降りてくる音がして さっきベランダに見えた女性が現れた。 少し離れて立つ私には 気がついていないようで 先生の背中に向って話しかけてくる。 「木村さん 忘れ物だって。とりに戻ってくるって電話だったから持ってきたわ これ」女性は 何処かの土産物が入ったような袋を 手にしていた。 「まったく おみやげくれるのはうれしいけど 他人の家のおみやげまでうちに置いてかれてもねぇ〜」 俯いていた先生が ふっと女性の方を振り向いた。 「……どうしたの?」 女性は驚いた様子で辺り見回し すぐに先生に挑むように立っていた私に気がついたようだった。 「こんにちは 皆川先生の奥さん。 奥さんは私を知ってますか?」 女性は驚いた顔で私を見つめ 小さく「あっ」と声をあげた。 反応からすると 写真ぐらいは見たことがあったのかもしれない。 「知ってらっしゃるんですね?」 そう私が冷ややかに言うと 女性は先生の方に走り寄って 私から先生を庇うように立った。 やっぱり先生は 母を見捨てて 何事も無かったかのようにこの女性と仲むつまじく暮らしてきたのだ。 悔しさと悲しさが 入り交じったような感情が 胸の中で暴れている。 「違うんだっ!」 俯いていた先生が 突然大きな声で叫んだ。 自分のどこかで なんてバカな事をしているのだと自身を非難している声が聞える。 はたまた また別の所から 卑怯な奴には自分のしたことを 思い知らせてやらなくてはいけないという声がする。 私は自分自身が混乱して その場から走り出した。 俯いたまま走り出した私は 数メートル走ったところで ドンっと鈍い音を立て 誰かにぶつかり 尻餅をついて倒れた。 「ああ すいません 怪我はないですか?」 そう言って相手が手を差し出すので 私は遠慮無く手を引かれなんとか立ち上がった。 それは 木村先生だった。 木村先生は目を落ちそうなほどに見開いて 私を見た。 「由季菜さん……」 そう母の名を呼ばれ 私はまた走り出した。 気がつくと私は 加賀の店のギャラリーにいた。 どうやってここまできたのか記憶があいまいだが 急に母の書が見たくなった事を覚えている。 それでなんとか電車を乗り継いで来たのだろうと思う。 ギャラリーに人はいなかった。 いつもならお客の少なさに気を揉むところだが 今日は誰もいないことにホッとした。 母 由季菜の書は 少ししか残ってはいないが 穏やかでいて力強さがある。 これを見るとなんだか心が落ち着かせることができる 不思議な書だ。 そうやって私はしばらくの間 母の書の前に佇んでいた。 少し落ち着いたのでギャラリーから出ると 隣のイタリアンの店シチリの店内を ガラス越しに覗いてみた。 皿洗い専門のチカが フロアにいるわけはなく 当たり前なことなのに 私は少しがっかりした。 奥で誰かが立ち上がり 走るようにして出てきた。 加賀だった。 加賀はこれ以上無いほど驚いた顔で 私を見る。 「……加賀さんも 母を知ってるの?」 返事もせずに 加賀は私を見つめ続けた。 |
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桜風 第三章 5 (by 麻那一睡)
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- 2007/08/24(Fri) -
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僕はS区までの地下鉄に乗った。
久々に乗る都内行きの車内は、遊びに出るらしい学生や通勤帰りの人々で混み合っていた。携帯を手におしゃべりをする女子学生らの向こうで、疲れきった僕くらいのスーツの男が俯いて居眠りをしている。 そのややくたびれた鞄や靴を眺め、僕は彼の献身的な仕事ぶりをふと思った。 彼と僕との間に、いささかでも違いなどある筈もない。 彼は彼で、平凡な日々に耐え、月日を家庭のために捧げているのだから。 守るものを守るために生きる。それは男として生まれた宿命であり、幸福でもある。 僕の中に彼と異なるものがあるとすれば、それは、妻子以外の女を守ろうとしていることだ。そのことは、虚無の中にある僕の前にずっと怖れとともに突きつけられて来たことでもある。 僕は無残に傷つけられた由菜を目にした時、由季菜がそこに居ると思った。 訴えるような、縋るような、心細げで儚い瞳が、僕を遠い記憶の中に吸い込んだ。 それが由菜であることを思い出した時、僕には解った。 僕の宿命は、由季菜に代わってこの子を守るということであったと。 由季菜が、どんなにこの子を愛し、思っているかということをも。 無力な僕。力も何も無い僕。 由菜にとって、一体どれほどのことができるかすら、僕にはまだわからない。 だが、由季菜が僕を求めていた、頼りたかったその気持ちが、由菜を見る時痛いほど突き刺さってくる。 それが僕の中の脆弱な部分を打ち据えるのだ。 僕は今夜、香取えみに会いに行く。 高校の時はほとんど知らなかった由季菜の親友である。 彼女は僕の知らない由季菜を知っていることだろう。 そして、僕もまた香取の知らない由季菜を知っている。 忘れようとしていた、忘れることに決めたあの桜の下を歩いた夜。 僕はその時に一度、由季菜への想いを断った。 僕は僕を愛してくれる女とその子を守るために生きねばならないと考えたのだ。 それは果たして、偽りの選択であったのだろうか。 いや、そうではない。 そうではない、と、僕はきっと思いたいのだろう。 それでもいい。 確かなことは、僕は他の女を想い続けていた僕を見捨てず、優しくそばにいてくれたアスミに感謝しているということ。 ジュンを大切に思っているということ。 しかし、僕は今日、香取えみに会うことにした。 それは、家庭を守るいい年の男のすることでない事はよく分かっている。 普通なら誰でもとうの昔に忘れ去る少年の頃の思いなど。 例え何かを知ったところで、それは最早どうすることもできない過ちでもあり。 長い道のりの中の一編の逸話にすらならないことでもある。 僕が何を知るために今この電車に乗っているのか。 ひょっとすると、僕自身、何もわかってなどいないのかもしれない。 R駅に降りたあたりから、人の群れは華やかになってきた。 地上には着飾った男女があふれかえっている。 「Bar 遼遠」は、表通りのから一本入った裏道のテナントの地下にあった。 送ってもらった地図を頼りに歩いていると、黒服の青年が近づいてきた。 「遼遠の者です。皆川様ですね」 丁寧な話しぶりに、店の質が伺われた。 「案内するようにとのことでお待ちしていました。こちらへ」 背の高い彼の後に着いていくと、降りたところの黒い大きなドアに小さい金文字の店の名が貼ってあった。 明らかに会員制の、業界向きの店と言ったところだろう。 黒服の青年がドアを開いて、僕を手のひらで導きいれる。 薄暗い店の入り口そばに、同じく黒服の中年のひげの男と、華やかな赤いドレスの女性が立っていた。 「いらっしゃいませ」 二人は声を揃えて僕に深く頭を下げた。 「香取さんですね。」 「はい、皆川さんですね」 ドレスの女は艶やかに微笑み、もう一度頭を下げた。 「今夜は来て下さってありがとうございます。 どうぞゆっくりしてらしてね」 ひげの男の案内で、奥のステンドガラス張りの小部屋に入った。 足元の絨毯の毛足が脚に絡みつくようであった。 調度品を見ても、高級店であることがよくわかる。 ひげの男が去り、すぐに香取が入ってきた。 僕の座ったテーブルに両手を並べて置き、膝をついてもう一度あいさつしてくれる。 その慣れた所作に、香取のキャリアと自信が漂っていた。 続いて入ってきた黒服の男が、手早く水割りを作っている。 緑のボトルや高価そうなグラスが、僕を場違いな気分にさせる。 男が慇懃に礼をして去ると、香取は急にクスクス笑った。 僕が困惑していると、グラスを僕に持たせ、少しだけ間を置いて隣に座ってきた。 上品な香水の香りがした。 「皆川君。そんなに緊張しないで。何も取って食ったりしないから。 せっかく来てくれたんですもの、今夜はゆっくりお話しましょう。 こんなところ、きっとあまり来る機会がないでしょう? のんびりしてらしてね」 「申し訳ない。ほとんど外で飲むこともなくてね。 場慣れしなくて恥ずかしいよ」 「いいのよ。皆川君は変わってないのね。私のことは見たことある程度だと思うけれど、いつも由季菜に話を聞いていたから。なんだか初めてお話するのがうそみたいよ」 由季菜の名を聞いた僕の顔つきが妙だったのか、香取はちょっと黙った。 石の光る指輪のはまった指先で、香取は長いタバコに火を着けた。 香取も、いつも由季菜のことを思い出しているのかもしれなかった。 「君は木村とは今も連絡とっているんだってね。」 「そうね」 香取はタバコの煙を吐いて、少し考えてから 「安心して。私は今夜のことはリョウには言ってないわ。 あなたがいつか来てくれることは、蘭子ちゃんから聞いていたしね。 皆川君、あなたの聞きたいことは、私には判ってる。 今夜の話は、由季菜のことをよく知っていた私たちだけの秘密、ってことでお願いね。 リョウにも、後で話したりしないからその辺は信じていいわよ。 私、商売柄口だけは堅いのよ。他はあんまり自信ないけどね。ふふ」 と、僕をからかうように見た。 蘭子から何か僕のことを聞いていたのかもしれない。 僕は何も言わず、手の中のグラスを眺めていた。 「さあ、あまり酔わない内に本題に入りましょうね。」 「助かるよ」 思わずほっとして僕が言うと、香取は僕の向かい側の席に移った。 そして両手を膝に置き、きちんと姿勢を正すと、少し息を吸い込んだ。 僕もグラスを置いて、香取の急に真剣になった顔を見つめた。 「何から話すべきかしら。。そうね。まず、由菜ちゃんのことからでしょうね。」 「君は由菜のことを?」 「よく知ってるわ・・彼女が生まれた時、私が由季菜に付き添っていたの。 D市の由季菜が預けられていたおうち・・由季菜のお母さんのご実家で、当時はお母さんのお姉さん、つまり由季菜の伯母さん夫婦が住んでいてね。とても理解のある人たちで。 よく力になって下さったのよ。私も何度も行って泊まらせていただいたりしたわ。 でも由菜ちゃんが二歳になる頃に、そのおうちが火事になってしまって。。 それで伯母さん夫婦は旦那さんの実家に移って、行くところがない由季菜親子は、上田のお父さんお母さんが連れて帰ったの。由季菜は精神的におかしくなってしまっていて・・・由菜ちゃんを取られたような気持ちになったみたいだった・・。そのまま入院してしまったわ。 ずっと書は書いていたのだけれど、最後はとても鬼気迫るものが多くて、、、私が蒔いて預かっているのよ。いつか由菜ちゃんに渡せるように。 由季菜は由菜ちゃんを本当に可愛がっていたわ。とても幸せそうだった。 私と三人でよく散歩したけれど、あんなに幸せそうな由季菜は見たことがなかったもの。 それなのに、いつもぶち壊すやつが現れるんだわ。。。 私ね、高校ではおとなしそうにしていたけれど、影では悪いことばかりやっていたの。 男の人と遊んでばかりいたしね。でもね、由季菜はいつも私のことを気にかけてくれていたの。二年の時に中絶した時も、由季菜はいっしょに泣いてくれた。。きっとそれがあったから、自分は中絶は絶対したくなかったんだろうな、って思うのよ。 そう・・・それを話さないといけないわね。。。私もあまり思い出したくない話なのだけれど。皆川君は知る権利があると思う。 由季菜はあの頃、あなたと付き合い始めて、とても嬉しそうだった。 私には、よくあなたのことを話してくれたのよ。 冷静に見えるけど、結構すぐ熱くなったり、お茶目なところもあったりして、とっても素敵な人だ、って話してたもんだわ。懐かしいな。 由季菜のおうちは、知ってると思うけど、ものすごく厳しくてね。放任のうちの親とは大違いみたいで、息苦しそうにしてたわ。いつも監視されているみたいで、おうちにいても全然くつろげなかったのね、きっと。 だから、皆川君の複雑な家庭の事情とか知って、気持ちの分かり合える者同士として、支えあえるんじゃないかな・・・って。 だけど、皆川君はいつもどこかで壁を作ってて、自分に心の内すべてを許すつもりはないと思う、とも言ってたの。寂しそうに。 皆川君、泣いているのね。当たり前よね、こんな話では・・ でもね、もっと泣かなくてはいけないのはこれからなの。 辛いと思うけど、しっかり聞いてね。 初めにこれだけは言って置くわね。あなたの知ってるリョウ・・木村遼はね、あなたが思うほど良い人間ではないのよ。びっくりすると思うけれど。 あの人はね、本当の女狂い。表向きは熱血漢のスポーツマンのふりをしているけれど、隠れて男と遊んでいた私と同じ。とっかえひっかえ女と寝ていたのよ。 信じられないと思うけれど、本当のことなの。私も初めは信じられなかったけれど、今は何となくわかるのよ、あの人の本質が。 あなたは、長い手紙をよく由季菜と交換していたわよね。 カモフラージュの厚い本なんかに挟めて、お互いのロッカーにしまっておいたでしょう。 リョウはそれを盗み読みしていたのよ。平気でね。どうしてかわかる?リョウは由季菜のことが気になって仕方なかったからよ。あれほど美しい子だもの。 でも、由季菜はあなたに夢中だった。 リョウはなんとかあなたから由季菜を一度でもいいから奪いたいと思っていたんだわ。 あの人は好きとか恋とかどうでもいい人なの。寝たいだけ。それだけ。 そして、やたら優しいし、女の扱いも上手だから、誘われた子は本当に愛されていると思い込んでしまうのよ。しかも、スポーツマンでしょう?女好きで誘ってるなんて、誰も思わない。みんな、自分だけ愛されると信じてしまうのね。 由季菜には、他の子に対しての気持ちとは違ってたみたいだれど。。 私はまだリョウのこと、そこまでわからなかったの。 たまに浮気されたように思ったれけれど、一番大事にしてくれてると思ってたもの。 彼のやり口はね、由季菜のように美しくておとなしい内気な子を狙って落とす。 そして、校内では私が居るものだから、他の学校の子をいつも狙っていたみたい。 若い女の子なんて、優しくされてまじめに見つめられれば、みんな寂しいから一発で勘違いしてしまう。あとはすぐほっとかれてしまうのだけれど、皆おとなしいから身を引いてしまうのね。遠慮して。 リョウが私と付き合っていたのは、いつでも気軽にやれる女だから。 好き者同士だった、ってことかな。 今でも、リョウが本当に心を許しているのは、私だけだと思うわ。 あの人は、誠実でも真面目でもスポーツマンでも正義感でもない、ただのスケベなおじさん。見かけが爽やかだから、みんなごまかされているだけよ。 奥さんだって、多分少しはわかってるんじゃない?どうしようもない男だっていうこと。 わかっててホレてるみたいだから、仕方ないわよねえ。 今も、卒業した生徒を適当に食べちゃってるみたいよ。しかもね、向こうから誘わざるを得ない気持ちにさせるのが、あの人の怖いところ。自分を悪く見せずに食べて捨てることのできる人。そして恨まれない。 仕事柄たくさん男性を知っているけれど、ああいう男が、本当のワルなんだと思う。 そしてね、あの人、滅多に避妊しないのよ?信じられる? 私の知るだけで、何人もあの人の子供がいるわ。どうやってるのか知らないけど、その中の女の人とは今も会ってるみたい。呆れた話でしょう? もう分かったと思うけれど、リョウは由菜の父親。 私は大きくなった由菜ちゃんには会ったことがないのだけれど、気性が激しかったり、人を誘うようなそんな怪しいところなんか、持ってるかもしれない、、 父親に似ているとすると、相当異性を惹きつけるタイプだと思うわ。心配。 由季菜は、生まれるまで皆川君の子だと信じてたのよ。でも血液型があり得なかったのよ・・ うかつにリョウの手練にひっかかって、一度だけ関係したのを、本当に苦しんで苦しんでいたっけ・・それもね、無理もないの。 あなたとなんだかギクシャクしてた頃、あなたからロッカーに返事が来なくなったと言ってたの。もしかしたら、あなたも由季菜の手紙を読んでなかったとか? だとしたら、そのあたりから、リョウはふたりのロッカーを監視して、手紙を捨てていたんだと思うわ。それくらいのことやりかねないもの。 そして、そのことを悩んでいる由季菜の心に入り込んだのだと思うわ。 OB連中のことは、蘭子に聞いてるわよね? あの日ね、私は由季菜と散歩していたのよ。 工場街の隅に空き地があってね、よくそこでおしゃべりしてたの。 あいつらは常日頃から素行が悪かったから、私も警戒はしていたんだけれど。。 突然バイクを連ねて五人でやってきて。 私を置いて由季菜を連れ去ろうとしたのよ。みんな薬でもやってたのか、酔っ払ってるみたいだったわ。 私はそいつらと顔見知りだったし、連れて行って何するか分かってたから、その辺に落ちてた鉄材をブン回して暴れてやったわよ。 そして、由季菜ちゃんを連れて行くなら、代わりに自分を連れて行け、って叫んだの。 私は中学の頃にマワされたことあったしね。。由季菜には皆川君がいるんだし、リョウや私なんかと違って、純粋に恋愛しているって知ってたから。当時、まだ携帯なんかなかったものねえ。 そいつらのバイクの後ろとか叩き壊して、この女はやばいと思ったのかも。 由季菜ちゃんを放り出したから、私はおとなしくひとりのバイクの後ろに乗ったわけ。 そいつらは女なら基本的に誰でもいいわけで、地面で倒れてる由季菜をそのままにして、私を連れて行ったのよ。 ただ、その中のボス格の加賀ってやつがね、由季菜を気に入ったらしくて、途中で引き返して行ったんだわ。私は約束が違うって怒鳴ったんだけど、バイクに乗ってるからどうすることもできなくて。 それから知らない倉庫に連れて行かれて・・・まあお察しの通りなんだけれど、私は度胸が据わっているから、こうなったらさっさと済まして、由季菜のことを通報しなきゃいけないと思ったわ。適当に抵抗したりその気見せたり。 それで、四人が油断した隙見て、トイレとか言った抜け出したの。 裸足のまま急いで一番近い工場の事務所に行って通報してもらったんだったわ。 連れて行かれた工場街と、倉庫の場所を話したの。 とにかく由季菜を助けないといけないと思って。 すぐ警察が来て、私はそのまま病院に連れていかれちゃって。 でもその後は変だったのよ。結局由季菜も私も調べられたのに、いつのまにか示談になってたの。私の親はそのOBの親に丸め込まれたのか脅されたのか、被害届を出さなかったし。由季菜ちゃんの方は未遂ってことで、傷害罪くらいは付きそうだったのに、それも被害届も告訴もなし。連中も何故か放免。 まあ女子高の先生なら、このあたりの仕組みは良く分かっているでしょうね、きっと。 結局、ボス格の加賀の親が動いてたみたいだった。不良連中はお咎めなしのままなんて、どう考えたっておかしいのにねえ。 それと・・・ これはあとで由季菜に聞いた話だけれど、、、 あの後、やっぱりすぐにボスの加賀が由季菜のところに戻ってきて、無理やり連れて行こうとしたらしいんだけど、その時、リョウが加賀を殴って追い払ったんですって。 不思議でしょう?リョウは何故そんなにタイミングよくそんな空き地に来たのかしらね。 リョウはそのまま由季菜を連れて帰っちゃったみたい。 そして・・・まああけすけに言えば、その場でくどき落とされてしまったのね。。。 でもね、それを聞いたのも、もう相当後の話でね。 私は一応リョウの彼女ってことになってたから、由季菜は私になかなか言えなかったのでしょうね。。 多分、リョウのことだから、半ば強引だったんじゃないかと思うわ。 リョウはそれからボスの加賀含めて、五人全員呼び出したり家まで行ったりしてかなりの怪我させたでしょう? まあそれで大学の推薦も無くして、停学になってしまったわけだけれど。 加賀はリョウが恐ろしくて逃げ回ってたみたい。 最後は親に脅してもらったのかもね。結局は、半殺しみたいにされたらしいけど。 でもね、リョウがそうやって復讐したってのは、何もただ単に私が襲われたからじゃあないのよね。リョウは、誰かを使って、由季菜を連中が襲うように仕向けたのよ。 それなのに私が一緒にいて乱暴されてしまったことは計算外だったわけ。 乱暴するよう仕向けたのはそもそも自分の癖に、リョウは自分の女を襲った連中に激怒して追っただけなのよ。 リョウは、なんとなく由季菜の後をつけて、襲われるのを待っていたのね。 だからすぐに現れたんだと思うわ。 何故って、助けることで由季菜の心をこちらに向けようとしたかったからなのよ。 それと、あの人、由季菜が他の男に乱暴されるのを見たかったところもあるのかも。 あの人はそういう倒錯がある人間だから。 どっちにしろ、自分の計算は狂ってしまった。 連れ去られたのが私だったから。 でも、あの人は私を救いに走らず、目の前で倒れている由季菜を救ったのよ。 付き合い長い私なんかより、あの人には目の前の由季菜の方が大切だったってわけ。 加賀が戻ってきたのは、願ったりかなったりだったんじゃない? でも、おかげで今度は加賀が由季菜を追いまわすようになってしまったんだけれど。 加賀は、由季菜があまりきれいなので、ホレ込んでしまったのね。 長いことしつこく追いかけてたみたい。 由季菜は本当に嫌がってて。 でも、卒業してD市に移ってからはさすがに現れなくなったらしいわ。 由季菜は妊娠していたわけだけれど、別れの手紙含めて、何度も皆川君に手紙を書いていたのよ。卒業までずっと。。。それも、リョウが多分、先に見つけて捨てていたのでしょうね。 学校ではいろんな噂が流れていてねえ。由季菜ちゃんは真面目な子だから話題にならなかったけれど、私は影でいいように陰口言われてたみたい。結構たくさんの男と付き合ってたし。襲われたのに陰口叩かれるってのも悲しいものよね。まあ自業自得だったのだけど。 リョウは由季菜ちゃんのことは、一切私の前で口にしなかったわ。 今もそう。それは、リョウは本気で彼女を好きだった、ってことなのかもしれない。 リョウにとって、由季菜は聖域なのかもしれないわ。 無理やり抱いたくせに、聖域も何もないのにね。 由季菜を妊娠させて、皆川君と別れさせて引き離して。 リョウは由季菜の心まで欲しいと思ってたのよ。 でも、由季菜はそれを拒んだ。 お腹の子は皆川君の子だって、信じきろうとしていた・・・ それなのに、結果は。。 私が一番許せないのはね、リョウが皆川君のそばに平気な顔して居ることよ。 私、蘭子ちゃんに聞くまで、皆川君とリョウが同じ職場、というのも知らなかったのよ。」 香取は涙を拭くためか、顔を伏せたままそのまま急いで出て行った。 僕はたまらず、声を出して泣いた。 部屋の外に聞こえるかもしれなかったが、とてもそうせずには居られなかった。 次から次へと腹の奥から塊が突き上がって、僕は両手で顔を覆った。 何が僕を悲しませたのか。 差し伸べられた手を知らずにいたからなのか。 それとも、親友と思っていた人間の長年の裏切りなのか。 いや、僕がもっとも辛いのは、誰よりも愛していた由季菜が、結果的に孤独に死んでいったことだ。 自分の思うままになど、誰が生きられようか。 加賀も、木村も、香取も、皆それぞれ自分の生を生きてきただけだ。 若かった自分たちが、それぞれの愛を求めたのも、それが狂ったパズルのように壊れていったのも、すべては思うまま生きたいという、その願いを持っていたというだけなのだ。 不思議に怒りはなかった。 あの由季菜の死を知った時に流すはずだった涙が、ただ噴き出していくばかりだけだった。 僕は由季菜を冒涜した。その結果が由菜の存在ではないことが、僕を安堵させた。 しかし、僕が陵辱するように犯したのは揺ぎ無い事実なのだ。 加賀や木村も、僕と同じように、己の汚い欲望に負ける弱い男であったのだ。 もし、由季菜が僕を受け止め、愛してくれなかったとしたら。 僕とて、彼らのように愚かな策を弄さなかったかと問われれば、完膚なき自信などないのだから。 何がいけなかったのか。答えなど見つからない。 人の浅はかさや貪欲さを責めるのは、簡単なことなのだ。 加賀は確かに、法的に許されない行為を行っている可能性が高い。 が、それと彼自身の愛と性には無関係である。 木村の行いも同じだ。 もし罪があるとすれば、あの透明な桜の精のような由季菜の美しさにある。 僕にはわかる。 彼らが理性を無くして策を尽くして彼女を手に入れたいと願ったその理由を。 他ならぬ、僕自身が、未だに由季菜の美しさを思い出しては反芻しているのだ。 他の男が由季菜を執拗に追い求める、その気持ちは、まさしく僕そのものなのだ。 ドアが開いて、香取が黒服の男と共に入ってきた。 さきほど僕をここに案内した青年であった。 青年はテキパキとテーブルにオードブルや器をセットした。 そして、水割りを作り直すと、にこやかに礼をして出て行った。 香取は化粧を直し、最初のきりりとした女店主に戻っていた。 「落ち着いた?」 僕に微笑みかける彼女の言葉で、僕は香取が僕をひとりにしてくれたのだと気がついた。 「すまない。つい動揺してしまって」 「いいのよ。無理も無いものね。ショックな話ばかりだし。。。」 香取は大皿からオードブルを僕に分けながら寂しそうに言った。 「由季菜は、結局、自殺か事故か、よくわからないままだったのよ。 遺書もなかったし。加賀にしつこく追いまわされていたのは事実だったんだけれど、 何せ彼女自身、子供を産んでから特に鬱状態になっていたのでね。 本当のところは、私にもわからないの。 ただね、どちらにせよ、由季菜は最後まで書家だったと思うわ。」 僕は書を書く時の、由季菜の人を寄せ付けない気迫を思い出した。 「彼女は書に苦しめられたけど、書に救われていたのね。 それはあなたもそう感じていたでしょう? あんなに繊細で、それなのに迫力のあるものを書けるのですもの。 きっと、凡人には理解できない辛さがあったのかもしれないわね。。 由季菜のおじいさんは、彼女を何代かにひとりの逸材って言ってたらしいわよ。 まあ、だからこそ厳しくしすぎたのでしょうし、期待も大きかった分、気落ちもしたんじゃないかしらね。 私は由菜ちゃんが上田家に引き取られてからは、全く会ってないのよ。 会わせてもらえなかったの。 もう18くらい?きっと由季菜に似て美しい女性になってるでしょうね。 二歳の時ですら、ちょっと考えられないほど可憐な子だったから。。 そういえば、皆川君が夕べくれたメールだけど。 上田由菜に関して知りたい・・ってことだけだったけど。 皆川君は、もしかしたら今の由菜ちゃんのこと知っているの?」 「そうだね。」 「会ったの?」 「僕の生徒だよ」 香取は息を呑んだ。 「まさか・・・リョウが仕組んだ?」 「いや、それはないと思うよ。 在籍していることがわかると、由菜とは関わるな、ってメール送ってきたくらいだからね。ほんとに偶然なんだと思う。」 僕は手短に、入学してからの由菜の身辺について話した。 香取は深刻気にうなづきながら、 「まあ。。やっぱり由菜ちゃんも、きれいだから悪いのが寄ってきてしまうのねえ。。 かわいそうに。 私が引き取っていれば良かったのだけれど。その時は私も妊娠していてね。」 「お子さんがいるのか」 「三人居るわ。さっきこれ運んできた子が二番目。上と下は女の子。」 「旦那さんは?」 「ふふふ。いないわよ、そんなの。父親は同じだけれどね。 全員リョウの子なのよ」 「そうか・・君も苦労してきたのだね」 「そんなことないわ。バカだと思うでしょう?女好きの男の子供を産むなんて。 でもね。リョウはどうしようもない男だけれど、私は愛しているし、理解してきたつもりなのよ。そりゃ、他の女を誘うのは嫌だけれど。どうしてなのかしらね。私はリョウしか愛せないみたいよ。 それにね、リョウの家は元々歯科医で、資産もあるのだけれど、その親譲りの資産を、ほとんど自分の子供たちに送っているのよ? うちの子たちも、全員学資はリョウが払っていたの。 彼はね、昔ながらの女好きの武士なのよ。女をたくさん囲って、子供を産ませるのが大好きな男なの。そして、どの子供も平等に可愛がるのね。 まあ、自分の子供同士が結婚したり恋愛したりしないように・・というのもあるのでしょうけれど。 子供には皆、自分が父親で他にも子供が居ると知らせているらしいわ。 変なところで律儀なのよねえ。。。 私との間に三人、自分の奥さんとの間にひとり。 他にも少なくても三人いるはずよ。由菜ちゃんをのぞいてもね。 今は若い頃と違って、そうやって子供たちが大きくなるのをひそかに見守るのが楽しみみたい。 昔のようには、女を誘うこともなくなってきているんじゃないかしらね。 リョウはね、本当に大昔の殿様みたいな男なんだと思うわ。 だから、、、許してあげてね。 もちろん、恋路を阻んだ罪は大きかったけれど。。。 由季菜が亡くなった時は、リョウの取り乱しようはすさまじかったわ。 私と一緒に、D市に訪ねて行って、由菜ちゃんにも会っているのよ。 私と同じで、上田家への出入りはさせてもらえなかったけれどね。。。 リョウもさすがに上田家に対して父親だと名乗らないでいたみたいだし。」 僕は、健気な香取の気持ちに、なんだか胸が張り裂ける思いがしていた。 「香取さん。君も本当に辛い思いをしてきたのだね。 僕は君に感謝したい。体を張って由季菜を守ってくれたこと。。犠牲になってくれたこと。どんなに辛いことだったかと思う。それに、僕の手の届かない場所で、彼女を支えていてくれたんだね。」 「皆川君。あなたは優しい方ね。なんだか由季菜の気持ちが解る気がするわ。 あなたはとても純粋で、温かい人なんだと思う。 人はね、あまりに辛いことが多いと、喜び方を忘れてしまうものなのよ。 私もあなたも、きっと、由季菜のあの澄んだ目で、それを少し思い出せた、、ってことなのかもしれないわ。 死んでからもずっと、これほど心に残る女性はそう多くないもの。 リョウだって、加賀だって、皆あの目に引き寄せられて、心を開いたり求めたりしてたんじゃないかしら。」 「僕も今、それを考えていたんだ。 大勢女生徒を見ているけれど、やはりあれほど心の清い子はなかなかいるものではないよ。外目にも美しかったけれど、何か不思議な、神秘的な魅力があったと思えるんだ。」 「そうそう。やっぱりね、私も男だったら、狂うほど恋しそうな子だったわ。 穏やかな波みたいな人なのに、作品では激しい表現をしていたり。 それも、書のことなんか知らない私でも感じ取れるような、天賦のものがあったと思うの。 あの才を考えたら、夭折も、なんだか納得できてしまう気もしたり。。 もちろん、亡くなったことはとても悲しいことではあるのだけれど。 亡くなる前に書いていたもの、由菜ちゃんに渡せるのなら渡したいわね。 でも、、そんな大変な時なら、それはもう少し先の方がいいかもしれない・・強烈だから。 でも、聞いていると、その子は今、由季菜がちょうど皆川君と幸せな時過ごしていた年頃じゃないかしら。」 香取はタバコを吸いながら、少し考えていた。 「ねえ、皆川君。さっきから気になっているのだけれど、あなたは、自分が由菜ちゃんの父親かも・・・って、悩んでここに来たというわけじゃあなさそうね。 ごまかしてもわかるわ、女ですもの・・ あなたは由菜ちゃんのことを愛しているのね。 由季菜ちゃんを守れなかった分、彼女を守ろうとしているみたいね。」 「香取さん」 「ううん、隠さなくてもいいのよ。 家庭があるとかないとか、生徒だとか、そんなことは関係ないものでしょう? あなたの目は、恋している目。 いつもいつも、彼女のことを考えている目。 でも、それでいいのよ。 正直に突き進んで良いと思う。 その方が、由季菜も喜ぶと思うから。。」 「・・・・」 「それとね、びっくりしたけど、加賀が由菜ちゃんを追い回しているのね。 彼女が由季菜の子って知っているのかしら」 「どうだろう。名前から気づきそうなものだがね。」 「加賀はずるいけど、あまり賢い男ではないから、追いまわした女の名前なんか憶えていないかもしれないわね。 でも、また同じような悪さを繰り返しているなんて。 いい年して本当にバカね。 加賀食品グループの会長もこの店に来たことがあるけれど、抜け目ない商人って感じだったわ。でも息子には甘いというわけね。 私も心当たりに聞いてみるわ。何かポロが出ないか。」 「そうか。もし何かわかったら頼むよ。」 「分かったわ」 時間はいつのまにか経っていて、僕は香取に礼を言って店を出た。 さきほどの二番目の子という青年と香取が、並んでいつまでも見送ってくれていた。 終電に乗り込み、酔客で臭う中、ジュンにメールしようとして携帯を出した。 すると着信メールがあり、開くとアスミからであった。 「明日、日曜だし一度家に戻ります アスミ」 携帯を閉じて鞄に押し込み、僕は目を閉じた。 今ごろ酔いが回ったてきたのか、周りでしゃべっている学生たちの笑い声が次第に遠くなっていく。 僕はぼんやりしつつも、香取と話したことを少しずつ思い出し、自分の中にまとめようとした。が、それもなかなかうまくはいかなかった。 帰り際に香取は言った。 「リョウに何か尋ねるのも責めるのも、あなたの気持ちのままでいいのよ。 例え昔のこととは言っても、リョウはあなた方を騙してきたことには変わりないもの。 それとね、由菜ちゃんとどうなっても、それもあなたの自由なのよ。 人生は一回きりなんだもの。例え誰かを泣かせることになったとしても、得なければならないことだってあるものだわ。 でも、あなたは奥さんを捨てられない。わかるのよ。 何故って、あなたの着ているスーツからワイシャツから、ほとんど奥さんの仕立てでしょう?ネームが刺繍で入っているデザインのネクタイなんて、とてもおしゃれで粋な奥様みたいね。 商売柄ね、そういうのはよくわかるのよ。仕立て屋のものじゃないってこともね。 それだけ大事にしてくれる出来た奥様を、皆川君は捨てられる筈ないに決まってる。 それから。。由菜ちゃんにはいつか伝えて欲しいの。 あなたには、腹違いの異母兄弟姉妹がたくさん居るってこと。 何か困ったり事業がしたくなったら、父親は必ず資金を提供してくれるってこと。 リョウは、ただ一人由菜の援助ができないでいることだけが辛いのよ。 リョウの子を産んだ女はね、みんな由菜ちゃんの味方してくれるわ。 変に思うだろうけれど、全員、自分が一番愛されてる・・って思ってるの。 それだけリョウの度量が広いということよ。お金だけ持ってても、女は長年囲われたりするものじゃないのよ。 私、他の女性と会うこともあるわ。ひとり仲の良い人がいてね。子供同士も仲良しなの。 リョウは年取ったら、全員集めて大きな家にみんなで住みたいんですって。 バカな人よね。 その時は・・きっと由菜ちゃんも呼ぶと思うわよ。 由菜ちゃんに会いたいなあ。。おうちが辛いのなら、うちで引き取っても良いのに。 でも、代代の家業があるなら、おうちでは手放さないわよね・・」 香取は、母親のような目をして由菜の名前を口にする。 亡き親友に代わって残された子を心配する彼女は、僕にはとても凛々しく、清しく見えた。 荒んだ生活を送っていたこともあったに違いないのに、香取は毅然として、また品格にあふれていた。ひとりきりで、愛する男の子らを育ててきた自信と深い威厳があった。 僕は心から香取に感謝し、手を合わせたい気持ちになっていた。 そして、由季菜が香取には何でも打ち明けていたその理由が、少し分かったような気もした。 由季菜は孤独に死んでいったのかもしれない。けれど、こんなに思ってくれる女友達がそばにい続けてくれたのだ。 そう思いながら、僕はまた目の奥が熱くなるのを感じていた。 あくる日、朝早くアスミが戻ってきた。 ジュンは朝食を食べると、機嫌が悪そうに部屋にこもってしまった。 だが、その顔に幾分ほっとした様子がのぞいたのを、僕は感じた。 彼なりに炊事や洗濯などこまめにやっていたので、バイトもあり、少し疲れてきていたのだろう。 アスミは張り切って布団を干したり掃除をしたり、家の中を忙しく走り回っていた。 リビングで新聞を読んでいると、突然木村がやってきた。 玄関の話し声に気づいて行くと、木村は大きな紙袋をアスミに手渡していた。いつもの笑い顔で。 「よう」 「おはよう。どうした」 「木村さんとこね、昨日N県に行ったんですって。これ、おみやげって。」 アスミは笑いながら、木村に礼を言った。 が、木村は忙しげに腕時計を見ると、 「大したものではないがね。皆で食べてくれ。急ぐんで、また来るわ」 と言い残し、すぐに帰ろうとした。 僕は見送りに一緒に階段を下りて行った。 木村は旅行の話を声高にあれこれしていたが、僕は前を降りていく木村の後姿をじっと見ていた。 いまさら木村を責めて、一体何になるだろう。 アスミとの結婚をあれほど喜んでくれた木村。 ジュンを息子のように可愛がってくれている。 由季菜の死を知らせに来た時のことを思い出す。 呆然としている僕の前で、木村は頭を抱えて号泣していた。 木村は僕を憎んで妨害したのだろうか。 いや、自分の思いを遂げるためなら、男はどんなことでもする。 例え親友の恋人であろうと、的は変えない。 若ければ尚のこと。 階段を下りきると、木村は笑って片手を挙げて車に乗り込み、走り去っていった。 きっと、アスミが帰っていたことに安心したのだろう。 その時、誰かに呼ばれたような気がした。 あたりを見回したが、誰もいない。 気のせいと思って戻ろうとした時、マンションの建物の影に、女の子が立っている。 呼んだのはこの子だろうかと思いながら立っていると、少女はゆっくりと僕の方に近づいてきた。 夕べ、香取の店に行ったからなのか? 僕は血の気が引いていくようなめまいを感じた。 少女は由季菜だった。 僕の記憶の中の、華奢な体にワンピースを着た由季菜。 僕の中がまたかき乱され、時間の流れがわからなくなる。 こちらを睨み付けるような燃える目をした少女。 違う。由季菜はけして僕をあんな目で見はしない。 由菜。 何故君はこんなに僕を混乱させようとするのだろう。 そして何故僕をそんな目で見る? こんなにも君のために生きたいと思っているというのに。 「ねえ 先生 お母さんをどうして捨てたの?お母さんが自分に相談しないから どれだけ悩んでても見捨てたの?お母さんが相談に来なくても なんとか助けようとは思わなかったの?先生の一番大事なのはやっぱり自分なの?」 由菜は僕の前まで歩きながら、低く呟くようにそう言った。 「あの人のほうがお母さんより好きだから?……だから見捨てたの?」 一体何のことを言っているのだろうか。 由菜は壊れてしまったのだろうか。 階段を下りてくる足音が聞こえた。 アスミの声がする。 何か言って笑っている。 僕は振り返った。 「……どうしたの?」 アスミは笑うのを止め、いぶかしげに僕を見上げた。 そして、由菜に気がついた。 「こんにちは 皆川先生の奥さん。 奥さんは私を知ってますか?」 由菜。どうしてそんなことを聞くのだろう? 何故なにもかも先に急ごうとするのだ。 僕が君を守ると決めたのに。どうしてすぐに結論を求めるのだ。 「知ってらっしゃるんですね?」 由菜の声が大きくなった。 アスミは、すぐに僕の昔持っていた写真の女を思い出したようだった。 そして何を思ったのか、僕と由菜の間に立ち、由菜から僕を隠そうとした。 何を言うべきなのか。 由菜はどんな言葉が聞きたいのか? 僕は落ち着こうとして、かえって体が震えてくるのを感じた。 それは、伝える術が見当たらない激しい悲しみだった。 「違うんだ」 僕は夢中で叫んだが、由菜は急に走り去ろうとした。 止めようとしたが、アスミが逆に僕の腕をつかんだ。 「詠二さん」 アスミの声は上ずっていた。 由菜が走っていった方向から、男が早足で駆けてきた。 勢い余って由菜はその男にぶつかってしまい、男に助け起こされていた。 男は木村だった。 アスミは紙袋を持って急いで木村の方に歩いていった。 木村は顔色を変えていた。 それはそうだろう。 由菜はわざと由季菜と見間違うように装って現れたのだから。 アスミが木村に声をかけた時には、由菜は立ち上がって遠くに駆け去って行った。 僕は急いで部屋に戻り、車の鍵を持って飛び出した。 下に降りると、アスミと木村が何か話していた。 僕を見ると、木村は青ざめたまま僕に詰め寄った。 「皆川。これはどういうことなんだ。」 僕は不安そうに僕を見ているアスミの肩を軽く叩きながら、 「ちょっといろいろあってね。神経が参って休んでいる子なんだ。 放って置けないし、少し様子見てくるから。」 「俺が行く」 木村は大声で言って車に戻ろうとした。 「木村、待つんだ」 僕はアスミに聞こえないように木村にそばに行った。 「木村、彼女は僕の生徒だから僕が行く。 お前は≪今は≫行かなくていい。」 木村は僕の顔を見た。 真っ直ぐな、いつもの木村の目だった。 僕は返事を待たずに、急いで車を出した。 舗道をよく確かめながらゆっくり走ったが、由菜の姿は見当たらなかった。 あのまま放っておいたら、また悪いやつに当たるとも限らない。 脇にいったん止めて由菜の携帯にかけたが、出ない。 まさかと思うが、加賀のところに行ったのではないかと、僕は不安になった。 駅前の繁華街の駐車場に車を停めて、急いでシチリアーノの入っているテナントビルに行った。中をのぞいたが、まだ店は営業時間前らしく、白服の青年が奥で何か用意をしていた。 一度駅前に戻って、裏道をぐるぐる回って見るが、無駄だった。 シチリアーノの裏通りに差し掛かった時、表通りからジュンがMTBに乗ってやってきた。携帯を片手にしていたが、僕の姿を見て急いで走ってきた。 「オヤジ、表で加賀とその女の子が何か話してるぞ」 「わかった。お前は来なくていいからな」 「うん」 すぐにジュンが入ってきた道を行くと、店の前の舗道で、なるほど加賀と由菜が向かい合って立っていた。 何かただならぬ様子なのは、多分加賀も由季菜のことを思い出したからだろう。 由菜はさっき僕に叫んでたみたいに、睨むように加賀に対峙していた。 加賀の顔は引きつっていた。 僕は走り寄って呼びかけた。 「上田!」 二人同時にこちらを見た。 僕は近づき、加賀を見た。加賀は僕を見て、ちらっと頭を下げた。 相変わらずの図々しい人懐こさで作り笑いしてみせている。 「皆川先生。久しぶりですね。その節はどうも」 僕は答えず、由菜の肩を掴んだ。 「上田、さあ、僕と一緒に来なさい」 由菜は唇を噛み締めて僕を凝視していた。 加賀は、まるで舐めるような品の無い目で、由菜をじろじろ眺めていた。 僕は居たたまれない思いがして、体に力を入れて少し抵抗している由菜を片腕で抱きかかえながら、 「加賀さん、この子は自宅療養中の体でね。 あまり刺激しないでそっとしておいてください」 と言った。 加賀は何か言いたそうにしていたが、僕はそのまま由菜を連れて駐車場に行った。 由菜は目を伏せ、僕に促されてようやく助手席に乗り込んだ。 走りながら様子を見ると、由菜は手元に小さなバッグと白いハンカチを握り締めたまま、俯いて何か考えていた。 郊外に出た頃、僕は信号待ちに由菜の方を見ないで 「上田、僕はちょっと用事があってね。これからそう遠くないところに行くんだ。 散歩だと思って、一緒に来ないか」 と、努めて明るく言った。 由菜はちょっとこちらを向いたが、小さな声で返事をした。 先ほどまでの激しい感じはいつのまにか失せて、なんだか急に頼りない少女になっている。 もしかしたら、少し泣いているのかもしれない。 そういえば、由菜はあの財布の中にあった僕の字のメモを見たのだった、と、その時思い出した。 執拗に口説いてくる中年男。 拉致されて辱めを受けたり。 彼氏が突然死んでしまったり。 担任が死んだ母親の知り合いだったり。 感じやすいこの時期の、しかもこんなに短い間に、由菜の周りではなんと多くのことが起きているのか。 まるで、由季菜の時のように。 しかし、僕は由季菜もそうであったように、由菜のことも、いつも心配して思いをかけている人間は少なくないのだと知った。 由季菜とのこと、アスミのこと、僕は何から彼女に説明すべきかを考えていた。 しかし、良い考えは浮かんでこない。 一時間近く走り、僕はある市に入った。 かつてよく知っていた町並みも、今は随分変わっている。 道を間違えないように、そのまま町の真中の小さい丘の上の学校に向かった。 寮から通学した上り道は、古い桜並木に挟まれている。 上は半分公園になっていて、その延長のように、あまり高い塀もない高校が建っていた。 公園のパーキングに停め、僕は由菜とそこに降り立った。 「おいで」 珍しそうにあたりを見回している由菜に声をかけて、僕は裏門近くの大きなケヤキの樹のそばに立った。 そこは、市内を一望できる僕が知る限り最も景色の良い場所であった。 遠くの県境の山々は遠く霞み、すぐ下には大小のビルが積み木のように並んでいる。 その塊の周りには青白く見える川がところどころ光って流れていた。 周囲には、まだ開発されていない農地や空き地が広がっているが、時代の流れで、おもちゃのブロックのように作られた団地やマンション群が思った以上に増えていた。 近くにある樹の下の固い木製のベンチに座って由菜の方を見ると、おとなしく僕の隣にやたら離れて座った。 僕は微笑んだが、由菜はまぶしそうに眼下を眺め渡していた。 「ここはね、僕と君のお母さんが知り合った学校なんだよ。」 由菜ははっとしたように、そばの学校の建物を見上げた。 日曜のせいで、朝から部活動をしているらしい生徒たちの掛け声やテニスらしい打球の音が静かに響いていた。 奥の方から、吹奏楽の音合わせの音がしている。 そうだ。僕は休みの朝早く由季菜と待ち合わせ、ここで会ったこともあった。 昼間は親の監視も緩かったのか、由季菜は僕とここから下の川沿いの道をいつまでも歩いたりした。 そのまま電車に乗って、あの城址公園に行くことも多かった。 握った手が汗ばんできても、僕たちは離さなかった。 ここに由季菜の娘である由菜と共に居ることを、僕は奇跡のように感じていた。 長い間、避けていたこの場所にこうして座っている。 由季菜を深く思い出すのを止めたのはいつだったのか。 考えただけで胸が苦しくなり、苦しさを抑えて僕はこの場所のことも忘れようとしたのだ。 今、思い出深い景色の前にいて、僕は不思議に胸苦しさを感じていなかった。 僕は僕なりに、由季菜を弔い、悼み、感謝できる日が来ようとしていることを知った。 気がつくと、由菜は僕の顔をじっと見ていた。 僕は笑いかけ、腕を伸ばして由菜の頭を撫でた。 上げた髪がほつれ、後れ毛がさらりと肩に落ちた。 由菜の目が、次第に柔らかくなって、黒く揺れて僕を見ている。 「このベンチでね、僕はお母さんとよく並んでこの景色を見ていたんだよ。 由季菜はとても美しかった。ちょうど今の君くらいでね。 そんな風な格好をしていたものだったよ。 僕はとても由季菜を好きだった。 初めは塾で隣になっただけだったのだけれど、どんどん惹かれてしまってね。 僕はとてもカッコウつけたがりの年頃でね。 男は無口で無愛想なのが良いと勝手に思い込んでた気がするなあ。 本当はもっといろんなこと話したかったのに、どう話したら良いのかわからなかったんだね。子供だったんだなと思うよ。 僕の家はちょっと複雑でね、居場所がなくてここの寮で暮らしてたんだ。 この丘を降りてすぐの場所に寮があったんだよ。もう今は別の場所に移ったらしいけどね。 僕はひとりぼっちだった。親もきょうだいもいたけれど、僕のことを考えてくれる人はいないと思ってた。 皆自分のことで精一杯だったんだ。僕は僕のことを僕自身で受け止めなくちゃならない、ってね。 でも由季菜を好きになってから、僕はやっと笑ったり怒ったりできるようになっていったんだ。彼女はとても物静かで、優しい、かわいらしい人だったよ。 お父さんやおじいさんがとても厳しく書の稽古をさせていて、いつも辛そうにしていたなあ。かわいそうだったよ。部活の時間も削られるし、友達ともなかなか遊びに行ったりできなかったみたいでね。いつも寂しそうだったよ。僕に会いにくるのも、いつも叱られながら無理に出てきたみたいだったな。 僕はもっと由季菜のことを知りたいと思っていたけれど、何せ自分のことすらわかってなくてね。悩んでる由季菜を見ても、僕はどうしてやることもできなかったんだよ。 由季菜は確かに僕に失望していたのかもしれないな。 でも、僕も精一杯がんばっていたんだよ。だけど限界があったんだ。 それに、、、いろいろ邪魔もあったりしてね。 結局のところ、僕はフラれたってことかな。 僕はそれから、なんだか全部がどうでもいい、なんて気持ちになってしまったよ。 さっき居たのは僕のワイフだけれど、大学に入ってから知り合ったんだ。 由季菜を捨てるだなんて・・・あり得ないよ。僕は本当に・・好きだったからね。」 由菜はしばらく黙っていたが、脚の下に両手を入れて、両足を前に並べて伸ばした。 細い足の先に、茶色いベルトの華奢な踵の高いサンダルがあった。 こんな足元で歩き回っていたのかと思い、僕は切なくなった。 「足が痛いの?」 由菜はくるりとこちらを向くと、困ったように頷いた。 「脱いであちらに伸ばすといいよ。 僕に寄りかかっていいから。」 「はい」 由菜は素直にサンダルを脱ぐと、ベンチの反対側に足を投げ出し、隅に寄った僕の肩に遠慮がちに背中を凭れ掛けた。 その子供っぽい所作が、僕にはいとしかった。 ほつれ毛が風で僕の頬をくすぐった。 髪の良い匂いがする。 僕は由菜の息を感じたまま、そのままじっとしていた。 「先生は・・・私の父を知っているんですか」 由菜は後ろを向いたまま、首をちょっと回してそう言った。 「そうだね。。知っているよ。」 「生きているんですか」 「うん。君のことをとても心配していると思うよ」 「どんな人ですか?どこにいるんですか」 「僕の口からは言えない。おじいさんやおばあさんの考えもあるだろうからね。 君がもう少し大人になった頃に話すことにしよう。 ただ言えるのは、お父さんは君を見捨てたわけじゃないってことだよ。 深い事情があったようだ。僕も当人ではないから、詳しくはわからないんだ。 でもね、お父さんはとても良い人間だよ。いつか困った時は君をきっと助けてくれる。」 「・・・・」 由菜は黙っていたが、突然こちらに体を向けた。 横座りになったまま、僕を強く見て 「先生、私、今知りたい。 どんな人か。どうして会いに来ないのか。 私がどんなにひとりぼっちか。 どんなに辛いことあったか。 聞いて欲しいの。 先生。教えてください。知っているのでしょう? 今すぐここに連れてきて!」 「上田」 「先生!早く!ねえ、先生!」 由菜は涙を浮かべ、僕の袖を掴んだ。 気がついたら、僕は由菜を抱きしめていた。 「先生!早く教えて!早く!」 由菜は泣きじゃくりながら僕の胸に顔を押し付け、尚も叫んだ。 「上田、すまない。僕からは言えない」 「先生!」 見上げた目が、涙で汚れて、それでもきれいに黒く光っていた。 僕は手のひらで髪を撫で、頬に当てた。 「上田、辛かったら、僕に当たるといい。僕で良かったらね。 僕は長い間ひとりぼっちだったよ。誰と居ても。 だからわかるんだ、君の気持ちが。。痛くなるほど。 嫌なこと苦しいこと、たくさんあったろう? その分、僕が楽しいことをたくさん味あわせてあげるよ。 確かに僕はお母さんを愛していた。でも、もうずっと昔の話なんだよ。 そのこととは全然別なんだ、僕の気持ちは。 分かって欲しい。どんなに君のことが大事か。 僕は家庭があるけれど、君のことを考えると、僕は君の他に何もいらない気がするんだ。 今はこれしか言えないけど、安心して欲しいんだ。 僕が守ってあげることを信じて欲しい」 由菜は何か言いかけた。 が、僕は強く由菜を抱きしめ、震えている唇に激しく口づけていた。 |
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