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桜風 第四章 6 ( by 奈々花 )
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- 2007/12/11(Tue) -
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たくさんの事が一度に起きると人間は処理のできないことを考えないようにしてしまうのかもしれない。
そんなことを考えながら私は助手席から外を見ていた。 あの桜が美しく咲き誇っていた入学式から今までにないようなスピードでいろんなことが起こりすぎたような気がする。 それは考え込んでどうにかなるようなものでなく、私を混乱の渦に落とした。 激流に呑まれる木の葉のように浮かび沈み傷を負ったが気がつけば凪いでいる水面の上にそと浮かんでいるような気がする。 信号が赤になったからか先生は私を覗き込み心配そうにしている。 私はじっと先生の顔を見返した。 気がつけば隣に先生がいた。 それは世間の常識から言えばおかしな事なのかもしれない。 そしてきっと当然あってはいけない事なのかもしれないとも思う。 けれど今、私を見つめる先生の瞳の温かさが私を楽にしてくれ唯一であることは真実だった。 だから今までのことを考えてみたところでなんの足しにもなりはしないのだと、ともすればすぐに後ろを向こうとする自分の心に言い聞かせてみる。 いつまでもじっと先生を見ていたせいか、先生はなにか私が言いたいとでも思ったのか、そしてそれがまた暗い話だとでも思ったのか、そのすっと通った眉を少し寄せた。 「あ、信号……」 私の呟きに信号が変わったと気がついた先生は焦ったように車を発進させる。 こんなにもこの人は私を気にしてくれているのだと思うとなんだかうれしくなってくる。頬に温かいものを感じて私は自分が知らぬ間に涙していることを知った。 きっとたくさんの事がありすぎて私は壊れてしまったのかもしれない。 ふっとそう思う。 けれども不思議とそれが悲しいとは思わなかった。 そういうのも面白いかとも思う。 先生が隣にいてくれさえすれば。 母の友達であったという香取さんに会って自分が母に愛されていたと知った。 それはとても嬉しくこれから生きていてもいいという許可証を貰ったような気さえする。 そしてその香取さんの子供も、じつは私と同じ木村先生が父なのだと知って驚いた。 しかもそれをだれも怒っていないことも驚き以外のなにものでもない。 一緒に住めばと誘って貰って純粋に嬉しかったし、自分に兄弟がいたという事も、たとえそれが母の違う兄弟でも不思議と心強さを感じたが、あの香取一家の考え方には多少の違和感は否めない。 それでもなんだか理解できない感覚ではあるが溢れるほどの誠意や善意を感じたのは確かだった。 だからその違和感についてはもう考えるのはやめようと思う。 「先生、どこに行くの」 急にそう聞いた私に先生はう〜んと唸ったまま何も言わなかった。 「祖父が悪くて祖母もいないから、私は2,3日先生といてもいいのよね」 「ああ」 先生はなぜか暗い声で返事をした。 私はいいとしても先生側の事情が都合が悪いのかもしれない。 先生側といえば……私はつい先日ジュンとした泊りに来てという約束を思い出した。 「先生、私この前ね……ジュン君に今週末に泊りに来てって約束したの」 「どうしてジュンとそんな約束を?」 「だって……ジュン君は私にいろんなお料理を作ってくれるっていうから。それに先生がジュン君を紹介してくれたから」 だから暗に自分でなくてジュンと付き合えって言っているのかとも思ったし……とそこまではなかなか言えず、私は途中で言葉を濁した。 「ふっ……」 先生がまるで嘲るような笑いをこぼし、私は言った事を瞬時に後悔した。 「気にしなくていいよ」 「えっ?」 「だからジュンとの約束なんか気にしなくていい」 「……でも」 「いいっていったらいいんだ」 まるでむきになったように強く先生は言い切る。 「あ、先生。アイス!」 窓の外にアイスクリームで有名なチェーン店の看板が見えた。 「食べたいの?」 「うん」 さっきまで顔をしかめていた先生が呆れたように笑う。 こういう店で誰かとアイスを食べるということはたぶんありふれたことなのだろうけれど、私にはあまり経験がなかった。 先生にだったら少しくらいわがままを言っても許されるような気がして看板が見えた途端に思わず言ってしまっていた。 気を悪くした風もない先生の声に私はホッとしながら胸が少し温かくなる。 私はいつの間にかこんなにも先生のことを特別に思っていたのだと自覚してしまう。 少し道を戻って車を駐めた私たちは 数人の客がいる店の中に入って行った。 ワクワクしながらアイスを選んでいた私は 突然後ろから肩を叩かれて飛び上がるほど驚いた。 「上田さんじゃないの!」 振り向くと意味ありげにニヤニヤとして私を見ている有沢さんがいた。 「ふうん。皆川先生も一緒なんだぁ」 先生は有沢さんをキッと睨んだ。 睨まれた有沢さんは唇を噛んでこのまま敵意もあらわに私を見た。 「関係ないにのにどうして一緒にアイスなんか買いに来てるのよ」 「お前にはそれこそ関係ないだろ」 先生は低い声で有沢さんに答える。 「先生もいつも事務的対応オンリーなのに、どうしてこの子だけ特別扱いなわけ?」 「……」 「またどうせ担任だから用事があったとか、見え透いた嘘を言う気でしょ?」 有沢さんはそういうと声を立てて笑い出した。 「どうして由菜を特別扱いするか教えてやるよ。それは由菜が特別だからだ」 「なっ!」 「先生っ!」 私と有沢さんが同時に驚きの声を上げた。 「先生、そんな事を言ったら大変な事になっちゃう……」 おろおろとした私に先生は優しく笑った。 「いいんだ。大変な事なったとしてももう構わないんだ」 「……でも」 有沢さんは面白いものをみたように笑いだした。 「へぇ〜ほんとに特別だったんだぁ。ってことは先生は学校を辞める覚悟ってことだよね?」 有沢さんは私に近寄っきて私をじろじろと見つめる。 「どこがいいのかなぁ?ちっともわかんない」 「有沢さん。お願い。学校には言わないで」 私が懇願すると更に愉快そうに笑っている。 「由菜……もういいんだ」 「でも……」 「そうだ!知ってる?皆川先生の奥さんってね、お父様が学校関係者と懇意なのよ。だから先生はきっとあの学校に入ったのよね。で、この不景気に生徒に手を出した教師が今学校を辞めてどこかに入れるとでも思う?」 私に首を傾げながら有沢さんはうれしそうに尋ねる。 そうなのだ。 私といると先生はたくさんのものを全て失ってしまう。 一緒にいたいと思う。でも先生を苦しめたくはない。 「おいっ、もう行こうぜ」 ドア近くで有沢さんを待っていたらしい男が声をかけると 有沢さんは手をひらひら振りながら私にまた連絡すると言って出ていった。 がっくりと力が抜けて窓際の椅子に座り込んだ私の手をふわりと大きな手のひらが包む。 「先生……どうしよ」 「大丈夫だから」 と先生は優しく笑った。 どこをどう考えても大丈夫じゃないことはわかるけれど、今は先生の優しい言葉を信じていたくて私は目を閉じた。 今月の新作だという色とりどりのアイスを買って 私たちはまた車に乗った。 「先生、私は先生に学校を辞めて貰いたいわけじゃない」 エンジンをかけたまままだ走り出さない車の中で私は先生に声をかけた。 「ああ、わかってるよ」 「でもこれじゃあ……」 「いいんだ」 「よくない」 溶けていくアイスを掬えないまま 私の目はずっとそれを見つめていた。 「じゃあ、由菜はどうしたいんだ」 車がブルブルと振動している。 先生が車を出さないのはまだ行き先が決まらないからに違いない。 私たちは何処へ行ったらいいのだろう。 「先生を不幸になんかしたくない」 先生は怒ったような顔で私を睨みつけた。 「俺の幸せって何?」 私は怖くなって思わず俯いてしまった。 「仕事があって、奥さんがいて、子供がいて」 「なんだそれ。そんなこと思っているならなんでこの間家に押しかけてきたんだ?」 そう言われてしまえば私は唇を噛むしかなかった。 「由菜がいなかったら幸せなんかじゃないさ」 そうぽつりと先生は言った。 「先生……私……先生と一緒に消えられたらいいのに」 先生はぎょっとしたように私を見た。 「由菜……」 先生は私の肩を抱き寄せてぎゅっと抱きしめてくれた。 カップの中のアイスがすっかり溶けてカラフルだった色が混ざり合い気持ちの悪い色になってしまっていた。 「先生……二人でいこう」 私が言うと先生何も言わなかった。 それから数時間車を走らせて私たちは母が晩年入院していた病院の近くにある温泉地に着いた。 私が母が最後に過ごした場所を見たいと言ったからだ。 温泉はさほど有名でもなく、といって人気が無いわけでも無いらしく客層はほとんどが地元の人と見受けられる感じだった。 だから宿泊施設にはほとんど客が居なかった。 私たちが訪れた宿はこじんまりとしたつくりではあったが、どことなく洗練された感じの宿だった。 後ろをただ黙って歩く私たちを仲居さんはどう思ったのか引きつった笑顔で お茶を出してくれる。 「娘さんですか?」 やんわりとした口調だが明らかに興味を持って私を伺っている。 「いえ……」 私が口を濁すと 仲居さんははぁはぁと納得したように首を縦に何度も振りながら早々に帰っていった。 先生は苦笑しながらそのやりとりを見ていた。 「こっちに来てごらん」 先生に呼ばれて窓の所まで行くと囲われた小さな庭に露天風呂があった。 「えっ?露天風呂付き?」 「いいだろぉ。こういうの一回来てみたかったんだよなぁ」 先生は嬉しそうに笑った。 「すごく高そう」 心配そうに窓から眺めていると先生は私の肩を後ろから抱いた。 「気にするな。もう金なんか持っていてもどうしようもないからな」 先生は明るく言う。 私は途端に悲しくなってしゃくり上げた。 「泣くなよ」 先生は私が泣きやむまでいつまでも抱きしめていてくれた。 山ならではの山菜や川魚、木の実やキノコ、この地方で有名なブランド牛のステーキなど夕食は贅を尽したものだった。 どれも美味しくてこの味をずっと忘れないでいようと思う。 先生は豪勢さに驚く私にうれしそうにしていた。 食事が終ると私たちは二人で庭の露天風呂に入った。 先生の膝の上に座って背中を預け 零れそうな星空を仰ぐ。 こんなに綺麗な星空ははじめて見た気がする。 視力の弱い私には余程強く輝いて貰わねばなかなか肉眼で星を見ることは困難なのだ。 「由菜……」 仰ぎ空を見ていた顎をそっと取られ 私は先生と唇を重ねた。 今はこの宇宙の中に先生と私だけしかいないような気がする。 翌朝、私たちは歩いて母が晩年入院していた病院を訪れた。 連泊することになっているため宿に荷物も車も置いたままだ。 受付で当時働いていた職員の方がいないかと聞くと 受付のお姉さんがパソコンで勤続年数の長い職員を捜し出してくれた。 出てきた名前に更に今日出勤している人に○をつけてくれる。 礼を言ってその一番上にある人物に会うべく私たちは3階の詰め所に向った。 外来棟と入院棟が完全に別なためか 院内は静まりかえっていた。 ポンっと音が鳴りエレベーターが開くと3階の詰め所が目の前に見えた。 「あの、吉永さんみえますか」 まだ初々しい看護師さんに聞くと彼女は後ろの控え室に向って大声で吉永を呼んだ。 出てきた看護師は40を少し越した感じの優しげな人だった。 胸ポケットに他とは違うラインが入っていることからなんらかの役職についていることをうかがわせた。 「はい。私が吉永ですが……」 見たこともない私たちに呼ばれ不思議そうにしていた吉永だったが 私が母の事を覚えているかと尋ねると 急にああ!と手を叩いた。 「知ってますよ。あの由季菜さんでしょ?」 吉永は母が入院していた頃は まだ学校を出てここに入ったばかりだったらしい。 「歳もあんまり違わなかったから患者さんというより友達みたいな感じだったのよ」 当時失敗が多くてリネン室に隠れて泣いていた吉永を 母はよく慰めてくれたのだと話してくれた。 「確か産まれたばかりの赤ちゃんがいたはずよ。あ、あなたなのね?」 吉永はうれしそうに私を見た。 「何度も写真を見せられたわよ。可愛いでしょ?可愛いでしょって」 母が私をかわいいと人にまで自慢していたなんて。 私はなんだか酷く感激してしまい涙がこぼれてしまった。 「もう私ねあんまり失敗ばっかりだったから ある日もう死んじゃいたいって泣いてたのよ。もちろん本気じゃ無かったんだけど、でも由季菜ちゃんは本気で心配してくれたらしくってね。そんな事をしたら産んでくれたお母さんが泣くよって……私のかわいい赤ちゃんがもしもそんな事をしたら私はとても悲しいからってね……私よりもわんわん泣いてくれて……もう、私ね……」 吉永はその時のことを思い出したのかそっと目元を拭った。 「そうだ!その時ね由季菜ちゃんが書をくれてね。その時はなんでそんなものくれたのかと思ったけど、後から聞いたら由季菜ちゃんって知る人ぞ知る書家だったらしくって、で、はじめは家に置いてあったんだけど どうせならみんなに見てもらった方が良いと思ってロビーに飾ってあるのよ。こっちこっち」 私たちは吉永に導かれロビーに到着した。 年季の入った応接セットが数組並べられているロビーには まだ誰もいない。 入院患者を見舞う人達が訪れる午後からはここも相当なにぎわいを見せるのかも知れないが、今は静寂な空間はどことなく現実の生活からはかけ離れた雰囲気を醸し出していた。まだ東から差し込んでいる光はそんな異質な空間を清浄にし、冷たさの残る薄緑のリノリウムの床に 暖かな光りを落としていた。 その窓辺にそれはあった。 「ちゃんと額にしてもらったのよ」 吉永は得意そうに笑う。 「願」 「私は書の事はわかないけれど でもこれが素晴らしいっていうことはわかるわ。だってほらあったかいでしょ?なんだかこれ見ているだけで涙がでるのよ。由季菜ちゃんにどう言う意味の願なの?って聞いたらね、私が生きていて欲しいっていうお母さんの願いで友達の願いだってね。私これもらってねこんな素晴らしいことにも出会えるこの仕事を絶対に投げ出さない。諦めないって思ったのよ」 吉永は額から私に視線を移して優しげに微笑んだ。 「そしてあなたに会ったら、由季菜ちゃんの子供に会う機会があったら絶対に伝えようと思ってたのよ。あなたのお母さんはあなたがずっと生きて幸せになることを願っているんだって……」 知らぬまにまた涙が頬を伝っていた。 母の書は吉永の言う通り温かかった。 見ているだけで母に抱きしめられている気がする。 検温があるからと吉永が後にしたロビーのソファーで私は先生に肩を抱かれながらいつまでもその額を見ていた。 |
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